人間、この厄介な生き物

  釈尊は、成道した際に次のように呟いたとされる。「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く皆如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるを以てのゆえに証得せず」(『註華厳法界観門』

 さまざまな解釈を見かけるが、私としては、妄想執着あるがゆえに悟りを得られないのは、人間だけであるように読める。その他のあらゆる生き物は、如来と同じような智慧や徳相を具え、それを発揮しているというのだろう。

 なにゆえ人間だけが妄想執着をもつのか。いや、そもそも妄想執着とは何のことなのか……。これもいろいろ意見の分かれるところかと思うが、やはり「自己」という意識をもつせいではないか。

 アメリカの国立精神衛生研究所のポール・マクリーン博士が示した「三つの脳の進化」(一九九○年)は、多少時間は経過したが今でも説得力を感じる。つまり人間の脳は、脳幹部、辺縁系、大脳新皮質の三層構造になっており、大雑把に言えば、それぞれ爬虫類脳、旧哺乳類脳、人間だけの新哺乳類脳で、最深部の脳幹部は「生きる」機能、それを包む辺縁系は「感じる」機能、そして表面を覆う厚さ4ミリの新皮質が「考える」機能を担っているというのだが、自己意識はこの新皮質の前頭部分に宿る。

 思えば自律神経も記憶も、辺縁系の管轄だから、脳幹部と辺縁系があれば充分生きていける。犬猫や馬など、旧哺乳類が愛おしく思えるのは、なにより彼らに新皮質がないため、言語能力がもてなかったせいではないだろうか。犬猫が喋る様子を勝手に思い浮かべると、愛らしさも激減する気がするのだが、如何だろうか。

 ある脳科学者の試算によれば、我々の大脳皮質に泡沫のように浮かぶ言葉は、毎分一五○~三○○語。フレイズとしては一日に四五○○○~五○○○○にも及ぶらしい。殆んどが、何も生みださない妄想、あるいは通過するだけの思いつき、そして繰り返し現れる執着や分別である。

 こうした作用から逃れるため、特に東洋の宗教はさまざまな瞑想法を編みだした。覚醒したまま言葉が浮かばない状態を作るのだが、チャンティング(読経など)にその作用があることは早くから知られていた。インドではそこから専門的な瞑想に発展し、シャマタやヴィパッサナーが生まれる。そして中国に流入し、それぞれ「止」「観」と訳されるわけだが、天台智顗の『天台小止観』などで詳述され、多くの僧侶たちによって実践されていく。階段を刻んで進む天台に対し、禅は公案を用いる「止」によって梯子を一気に登る。しかし到着するのは同じ禅定、三昧(三摩地、サマディ)の境地である。

 釈尊がその境地で眺めたと思える情景の思考モデルが『華厳経』に登場する。いわゆるインダラ網である。インダラ網はインドラ神(帝釈天)の宮殿にあるとされ、全ての結び目に宝玉が輝き、そこには自己以外の全てが映っている。一つの宝玉が動くだけで全ての景色が変わり、それは個と全体との無盡の関わり合い、重重無盡の縁起を表すとも言われる。またそれは自と他との相即相入たる事事無礙法界の基盤にもなる。

 私にとってこの網は、『中陰の花』以来長く気になってきたテーマなのだが、最近生物学者の福岡伸一さんと対談していて興味深い視点を得た。問題は自他という個別性を保ったまま、どうしてそれが融合(相即相入)できるのか、ということなのだが、福岡さんはイワシの群れやムクドリの群れなどを例に、彼らが集団でいるときは自己というものが「溶けて」全体のなかにいる、と言う。じつは彼らには量子論的な結びつきがあり、近くに見えているものと遠くに見えているものがほぼ同時に動いているように見える。(中略)個々の細胞が多細胞生物を作っているのと同じことなのだそうだ。

 またムクドリの群れも伸びたり広がったり全体として自在に飛びまわるが、「あんなことはコンピューターでシミュレーションしても、あれほど全体性を持って動くものは作れない」と仰るのである。

 まさにこれこそ天然のインダラ網ではないか。

 量子論の特徴の一つは、「重ね合わせ」と言われる現象。たとえばミクロの世界で量子が「波動のように振る舞い」、しかもその「波動は粒子のように振る舞う」。この「重ね合わせ」あればこそ、量子の結びつきは極めて強いらしい。

 量子的なつながり、というのは、どうやら元々一つであったものの間に生じ、保たれるようだ。ならば三十八億年前に一つの細胞から最初の生命体ができ、それが少しずつ進化しながら多様性をもった生物どうしなら、「自己」を溶かしさえすればお互いが利他的に振る舞い、鳥やイワシの群れのように皆如来の智慧徳相を顕すはずではないか。

 しかし私たち二人の結論は、人間だけがそこから外れ始めている、ということ。煩悩執着の最たるものは「名」と「利」。名を挙げ、利益を得ようと、勝ち負けにばかり拘っているのが現在のいわゆる先進国ではないだろうか。日本の政府はとうとう国民に投資を勧めだした。誰も損しない「ご利益」ではなく、誰かから奪う「利益」を追求せよというのである。

 初めに挙げた成道後の言葉が今は溜息交じりの慨歎にも聞こえる。

 脳の発達でせっかく得られた自己ではあるが、これが我々を苦しめる元凶でもある。自己が溶けた時間をなるべく永く保ちたいものだ。

『巨福』 平成6年雨安居、第119号