巻頭言「手紙」のなかの平和

 ウクライナで戦争が始まり、二年が経過した。戦時における言葉の意味の変化を示そうと、オスタップ・スリヴィンスキー氏は多くの被災者たちの文章を一冊にまとめた。それをロバート・キャンベル氏が日本語訳したのが『戦争語彙集』(岩波書店刊)である。
 なかに「手紙」と題したニーナさんの文章があった。夫は地質学者で、ソ連各地や北極圏への長期出張も多く、旅先から多くの手紙をもらったものの、あまり返事を書かず、書いてもごく短い返事ばかりだったため、防空壕に避難するにあたって夫の手紙四十三通すべてを鞄に詰め込んだというのである。
 そんなとき、普通はなにか本を持っていくに違いない。しかしニーナさんは夫のすべての手紙を防空壕に持ち込んだ。それはもしかすると、その安否や居場所がわからないせいかとも思うのだが、訳された文章からははっきりしない。ただ彼女は防空壕の中でその手紙を読むために持ち込んだ、と書くだけなのだ。
 ところが防空壕の中は予想以上に暗く、文字が読めない。それでも彼女は手紙を一通ずつ取り出し、内容を思い浮かべたという。すると不思議なことに、長い間読み返していなかった手紙の内容がじわじわ甦ってきたらしい。そうして四十三通の手紙をすっかりなぞり終えると、今度は一通ずつ返信を考えはじめたのである。
 過去の実際の返信と違い、その文章は淀みなく浮かんできたらしい。恐らく溢れんばかり、ということだろう。ただ彼女は、返信では戦争のことも防空壕のことも伝えなかったという。「だってあちらでは必要ないことでしょう」と彼女は言う。そこまで読んでようやく、我々は「あちら」が「どちら」なのか気づくのである。
 戦時下では、新たな手紙を届けるなど至難の業に違いない。しかし古い手紙でさえ、手紙は間違いなく人の心を繋いでくれる。SNSがそのスピードゆえにむしろ戦争に奉仕しているのに対し、手紙は明らかにゆったりと時間を孕み、それ自体が平和に寄与する存在ではないか。この世に手紙というツールがなくなったとき、そこに住む人間はもはや「間」を失ったヒトに過ぎない気がする。

「通信文化」 2024年5月号