うゐの奥山 その七拾七

 金と銀

   その昔、金と銀とは対等で別な価値と考えられていた。貨幣に用いた基準も、西日本では銀本位、東日本では金本位だった。
 両者を測れる共通の物差しはなく、金の価値観で見れば銀はくすんでいるが、銀にすれば金の光り方など嫌らしいくらいだろう。しかしそうして比べて競い合うのではなく、両者にそれぞれ別な価値が宿っていると見た。これは中国の思想書『荘子』に由来する「両行」という考え方である。
 この考え方は、日本人のさまざまな面に浸透した。たとえば言葉も日本語は真名(漢字)と仮名の両行だし、私と公もすでに聖徳太子の頃から認知されている。「わび・さび」が生まれれば「伊達・婆娑羅」が生まれ、「粋(意気)」が賞揚されれば「通」も現れるという具合である。一つの価値観が生まれるとそれに一本化されるのを防ぐかのように、対になる価値観が唱えられたのである。
 諺でも、「善は急げ」だけでなく同じ頻度で「急がば廻れ」とも言うし、「嘘つきは泥棒の始まり」と言いながら、「ウソも方便」とも言う。「栴檀は双葉よりも芳し」と言いつつ、「大器晩成」も同じように頻繁に使った。つまり日本人は、一つの原理を常に真理として奉るのではなく、状況のなかで最善の着地点をその都度探すという「直観」の文化を築いていったのだと思う。両極端を踏まえつつ、その間に最適な在り方を求めるこの生き方は、仏教の勧める「中道」にも適い、また考え方の違う相手への寛容さ、やさしさをも育んだのである。
 金と銀に変化が起こったキッカケはもしかしたらオリンピックだろうか。とうとう銀は金の下に位置づけられてしまった。そしてオリンピックで勝つのと同じことが、次第に一般社会でも求められるようになった。「速く」「効率よく」「遠くまで」。それはオリンピックの美徳であると同時に、市場原理でもあるだろう。この国は近年アベノミクスと呼ばれる市場原理を最優先し、それさえ良ければ後は従いてくるとばかり盲進してきたが、そんななかで必然的に起こったのが今回の「障碍者雇用水増し問題」である。
 模範を示すべき厚生労働省をはじめ、国や県の機関が軒並み数をごまかした。退職者や、視力が弱い人など、合計七千人を超える人々を恣意的に「障碍者」に算入していたというのだが、これは公文書改竄にも劣らない相当に根深く重い問題である。
 弁護士らによる検証委員会は「極めて由々しき事態」だと指摘し、その原因も「(障碍者の)対象範囲や確認方法の恣意的解釈」だとしたが、そんなことが分かっても根本的な解決策にはならないはずである。なによりこの社会が、銀を金の下と見る社会に成り下がってしまったことが問題なのだ。「善は急げ」「ウソも方便」「栴檀は双葉より芳し」ばかりがもてはやされ、「ゆっくり」や「正直」、「おっとり」などは見向きもされない。それはもう一種の優生思想ではないか。
 一括りに「障碍者」と言っては申し訳ないが、そこには信じられないほど正直で博愛に満ちたやさしい人々が数多く属している。市場原理に照らせば確かに彼らは劣っているかもしれないが、問題は市場原理以外の価値観を我々の社会が忘れてしまったことにある。
 最近は出生前診断でダウン症などが事前に分かり、その診断を受ける母親もどんどん増えているという。以前、ダウン症の子を若くして亡くした母親が話していた。「こんな子が、一家に一人いたら、世界から戦争なんてなくなると思いますよ。私みたいに幸せな体験が、今後はどんどんできなくなるんですね」
 いぶし銀と言うけれど、それは金からすれば思いも寄らない価値観だ。金銀が「両行」できる社会こそ、目指すべきやさしい社会ではないだろうか。 



                               東京新聞  2018年110月25日