うゐの奥山 その七拾五

 「陰翳」の功徳


 陰翳といえば、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を抜きにしては語れない。これは昭和八年に書かれ、前後半に分けて発表されたのだが、今読んでも、というより、今こそ非常に面白く読める文明論である。
 建築や庭、器、食事、歌舞伎や能、そして化粧にも話題は及び、じつに幅広くまた奥深いのだが、簡単に言ってしまえばこの国の文化は陰翳のなかで培われたのだから、これ以上無闇に明るくしないでほしい、との警鐘でもある。
 いま無意識に「無闇に」という言葉を使ったが、これは象徴的である。闇が無いということは、日本人にとっては熟考することも静慮することもなく、という浅慮と軽挙を意味する言葉だ。
 漆器のことは英語で「japan」というが、谷崎氏はこれこそ燈明か蝋燭のあかりのなかで魅力が最大限に活かされると言う。谷崎氏ご自身の名文で、その魅力を味わっていただこう。
「漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持ちである。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることはできないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁(ふち)がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に含む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない」(中公文庫27頁)。
 ああ、もっと読みたい、と思った方は、是非ご本人の本を御一読いただきたいが、ここではもう一つだけ、谷崎氏の指摘する「陰翳」の功徳を紹介しておきたい。
 同書の後半で、谷崎さんは巴里から帰った人物の話として、欧州の都市に比べると東京や大阪の夜は格段に明るいという話を紹介している。「恐らく世界じゅうで電燈を贅沢に使っている国は、亜米利加と日本であろう。日本は何でも亜米利加の真似をしたがる国だ」。これが昭和初期の巴里帰りの友人の感想なのである。
 また同書には、アインシュタイン博士が「改造」の社長に上(かみ)方(がた)に案内されたときのエピソードも出てくる。汽車の窓外を見て、アインシュタイン博士が「あゝ、彼処に大層不経済なものがある」と言ったというのだが、「電信柱か何かに白昼電燈のともっているのを指さした」らしい。
 特に感想は述べないが、この国が陰翳に鈍感になってきたのはどうも最近のことではないらしい。谷崎氏の文章は以下のように続く。
「どうも近頃のわれわれは電燈に麻痺して、照明の過剰から起る不便と云うことに対しては案外無感覚になっているらしい」
 そして谷崎さんが嘆くのは、待合、料理屋、旅館、ホテルなどが電燈を浪費している状況である。四隅の影をなくすほどの照明には、日本美を感じないだけでなく、暑い。眺めのよい夏の涼み場所なども、明るいうちから過剰に照明されてしまうから涼しさを感じないというのである。『陰翳礼讃』は、「まあどう云う工(ぐ)合(あい)になるか、試しに電燈を消してみることだ」と勧めて終わっている。
 これまで自分が体験した最も明るい場所を振り返ると、パチンコ屋と、ある宗教の宿泊講座を憶いだす。二泊三日の講座の最終日に、前夜一睡もできないまま、皎々たる照明の下で何かを暗誦させられた。理性を奪われ、情も希薄になり、ああこれが「洗脳」かと思った覚えがある。オリンピックに向けて陰翳はますます減るだろうが、ご用心、


                               東京新聞  2018年9月16日