うゐの奥山 その六拾壱

 月下氷人


 最近、じつは頼まれて仲人を務めることになった。今の若い世代は仲人など頼まず、神仏も頼まず、人前結婚などという気楽なスタイルが多いようだが、新郎がお寺の副住職ではそうもいかない。
 つくづく思うのだが、結婚に至る手続きが気楽になればなるほど、気楽に別れるケースが増えているのではないだろうか。入籍のみ、というやり方に至っては、除籍すればそれで済む。
 好感を持っていた青年僧侶だし、若い二人を心から祝福したいと思って引き受けたのだが、こうして仲人が立てば別れにくさは格段に増す。引き返せないと思わせる面倒な要素を、一つでも増やすのが賢明な結婚ではないかと、余計なことまで思ってしまったのである。
 余計なことと言えば今回のテーマの「月下氷人」も余談のようなものだ。以前から仲人を「月下氷人」と謂うのは知っていたが、意味がわからなかった。月の下の氷の人? そのまま読めばいかにも冷徹で無情の人とも思えるが、これがどうして仲人や媒酌人なのだろう?
 どうも諸説があって確信が持てないのだが、「月下老」と「氷上人」とが合流したという説を元に考えてみた。合流も確かにあり得るだろうが、わざわざ「老」や「上」を抜き、「月下氷人」の四文字で表現した意味が、そのままでは理解できないからである。
 「氷上人」の話の中心は、氷の上にいて氷の下の人と話した、という夢の解釈である。中国の晋の索紞という占いの名人は、氷の上は陽で下は陰だから、この夢は君が結婚の媒をしてうまく行く前兆だという。しかも結婚が成立するのは氷が解けた頃だとういうのである。
 実際そのとおりになったから、この話が残ったのだろうが、ここで「氷」とは何かと、私は考えてします。
 男女を隔てる氷は、やがて解けるわけだが、仲人はその氷が解けるまえに両者の間を動き廻らなくてはならない。いや、むしろ結婚にはお互いのことが「よく解らない(氷が解けていない)」ことこそ重要で、氷のあるうちに奔走して両者を盛り上げ、まとめることこそ慣要だと、そう告げているのではないだろうか。
 その文脈に沿って「月下」に目を移すと、これはどうしても「夜まで」と読める。仲介のための活動が月明かりの下でも続くイメージである。それとも月のもつ不思議な力を借りるのだろうか。
 本来の「月下老」の話は、不思議老人(じつは縁結びの神)が赤い紐を結び、十数年後の結婚を予言して的中させた故事だが、なにゆえ「月下老」と呼ばれるのかはよくわからない。
 総合すると、「月下氷人」とは、お互いよく解らない(氷がある)うちに月の力も借りて活動する人、ということになるが、むろん私のような頼まれ仲人は埒外である。
 『詩経』にも「若者よ、もし妻をもとめるならば氷の解けきらない冬のうちに」という意味の詩句があるが、今回は余計なことを考えるうちに「解らない(氷がある)」ことの重要さに辿り着いた。
 もしかすると、結婚が破綻するのは相手を「解った」と思ったときではないか。
「解らない」ことは相手の魅力にも繋がり、そう思う本人の謙虚さでもある。
 ちなみに仏式の結婚式でも三三九度は行なうが、これは同じ「三」が掛け合わさって「九」(=永遠)を誓い合う儀式である。我々僧侶の行なう三拝九拝(永遠の帰依)と同じ意味合いだが、帰依も結婚も、「解らない」と思えばこそ「永遠」の道になるのではないか。


 東京新聞 2017年4月30日