うゐの奥山 第四十六回

志賀島

 先日、講演で福岡へ出かけた折りに、女房と志賀島(しかのしま)まで行ってきた。全国でも珍しい砂州による陸繫島(りくけいとう)だが、今では「海の中道」という立派な道路で繋がり、塩の満ち干に関係なく車で渡れる。
 志賀島といえば金印が発見されたことで有名だが、その歴史はじつに古い。『古事記』や『日本書記』には綿津見神(わだつみのかみ)祭主さる阿曇(あずみ)氏についての記述があり、彼らの本拠地がこの一帯だったらしい。やがて阿曇族は日本各地に拡散し、一説では、長野県の安曇野をはじめ、滋賀県の安曇(あど)、愛知県の渥美(半島)、静岡県の熱海、山形県の温海(あつみ)、そして石川県の志賀町にまで移り住んだと言われる。島には綿津見神社の総本社とされる立派な志賀海(しかうみ)神社があり、この神社では古来神事に際して「君が代」を詠う。「君が代」発祥の地ではないかとの説もあり、またいわゆる元寇(弘安の役)の戦場にもなった島だから、じつに歴史的興味が尽きないのである。
 しかし今回出かけたのはそういった興味ではなく、この島にある荘厳寺(そうごんじ)さんを訪ねるためだった。この島は平成十七年の三月、マグニチュード7の福岡西方沖地震に遭った。震度6の島の被害は甚大で、周囲約十キロほどの志賀島循環線(県道524号線)は崖崩れや亀裂のため通行止めになり、荘厳寺さんの本堂も激しく損壊した。
 そしてじつは東日本大震災の翌年の春、なんとか本堂の改修工事を終えた荘厳寺さんご夫妻が、うちの寺を訪ねて来られたのである。突然の来訪で、それまで面識もなかったのだが、震災を他人事に思えない彼らの言葉は私や女房の心に響き、いつしか茶の間でお互いの苦労話までしていたのである。
 当方も今回、突然に訪ねてみたのだが、岡の上に新築された立派な本堂の正面から覗くと、奥に人影が見えた。庫裏の玄関にまわって声を掛けると、おお、懐かしい和尚さんの顔……。恰度世話人さんが来ていて、冒頭のこの島の歴史なども伺うことができた。本堂をご案内いただき、お茶をよばれ、あれこれ懐かしんでほどなくお暇した。奥さんがお留守で逢えないことが心残りだったが、突然なのだし仕方がない。我々は世話人さんにも勧められ、そこから志賀海神社に向かい、ゆっくり参拝して再び参道を下ってきたのである。
 するとさっきの世話人さんが参道の下にいて、すぐにお寺に電話を掛けてくれた。寺に戻った奥さんが我々を探しに神社まで来たが、見つけられずに諦めてお寺に戻ったというのである。奥さんは息を切らして再び駆けつけてくれた。名残を惜しんだ我々は、彼女に車に同乗してもらい、島の展望台まで案内していただいたのである。
 島育ちの奥さんは、暗く沈んだタブの林と向かいの能古島のシルエットを見下ろしながら、あっという間に幾層もの島の歴史を語ってくれた。古代も中世も含んだ志賀島の夜の始まりは。まさに「風流ここに至れり」。得がたい旅になった。


 「東京新聞」2016年1月2日号