新連載 新・鎌倉のみほとけ 
第一回 建長寺 本尊地蔵菩薩坐像


お地蔵さんの祈り


 仏教をいくらか学んだ人なら、お地蔵さんが僧形であるワケもご存じかもしれない。僧侶が独新身と決まっていた時代のことだが、僧侶ならいつでもどこへでも助けに来てくれる、「ちょっとこれから、出かけてもいいかなぁ?」などと奥さんに訊く必要もないし、老若男女の全てに同じように対応できる。だからお地蔵さんは僧形で錫杖を持ち、迅速に出勤できるように大抵は立っておいでなのである。
 あれ? このお地蔵さん、……坐ってる。錫杖は持ってるけど、なんだか完全に禅定に入っているようだし、立ち上がる気もなさそうだけど、大丈夫? 
これが建長寺仏殿のご本尊様を初めて拝んだときの、素直な感想であった。あまり地蔵の定義を無視した造形に、私はひどく戸惑ったのである。
 しかしその後、じつは京都の妙心寺にも片方の脚だけ台座から降ろした地蔵菩薩がいらっしゃることがわかった。定朝作と伝わるその坐像は、「地蔵菩薩右脚踏み下げ像」と呼ばれている。
 要するに、たぶんこういうことなのだ。六道すべてに対する地蔵菩薩であれば、常に悩める衆生のところへ東奔西走する。だから通常の世の中であれば、坐っているヒマなどないはずである。しばらくお呼びがかからなくとも、いつまた呼び出されるかもしれないし、とりあえず蓮華座に坐りはするものの、瞬時にダッシュできるよう、右脚を下ろしてみた。それが妙心寺のお地蔵さんなのである。
 片脚を降ろしたままでも、慣れた菩薩であればたやすく禅定に入れる。そして禅定は、活動のための充電みたいなものだ。いつでも動ける、ということは、いつでも坐れる、ということなのだ。
 ところが今か今かと片脚で禅定に入りつつ待機していたが、なかなかお呼びがかからない。今がそれほど安寧とも思えないが、お呼びがかからなければこちらから御用聞きに出向く筋合いでもない。
 そこで本格的に坐を組んでしまい、深い禅定に入ってしまった。それがこの、建長寺仏殿の地蔵菩薩ではないか。
 むろん、それほどの平安がかつてあったということではない。これは地蔵菩薩の最大にして最後の祈り。世の安寧が成就した姿なのだろう。いや、それとも地蔵菩薩は、動き回る毎日のほんの合間にも、こうして毎晩祈っていたのだろうか。


 「かまくら春秋」2016年1月号