第一回

「自」意識と「字」意識

 

私は今でも墨を摺って卒搭婆を書いているが、どんなに忙しくとも墨を摺る時間は大事にしたい。書く内容を吟味するだけでなく、無心に墨を摺っている時間そのものが心地いい。単純な作業を丁寧にしつづけることは、最も無心になりやすい状況ではないだろうか。


書は一生もの

 書道の思いでというと、まずは小学校の頃に通っていた小さな私塾を想い出す。たしか週三回だったと思うが、カーペットの敷かれた薄暗い畳の部屋に、時代がかった細長い坐り机が十個ほども置かれ、正坐して墨を摺っていた記憶が蘇る。どういうわけか記憶の中の私はいつも墨を摺っており、実際に字を書いている時間は記憶から抜け落ちている。どういうことなのだろう。
 そこではとにかく正坐して心を鎮め、まっすぐに墨を摺るよう教わったのだが、すでに硯じたいが激しくへこんでいて、墨を摺りながら油断するとへこみにぶつかって墨がはじく。どの子もたいてい胸元や腕を汚していたような気がする。
 その日の課題の文字を書き、半紙を一枚提出すると、お爺ちゃん先生が朱色で修正したり○印をつけてくれたりする。あまり褒めない先生だったから、○印を付けられると子供心にも嬉しかった。
 老先生は、結局文字の書き方というよりも、正坐やお時儀、文字を書く構えなど、日本人としての躾をしていたようにも思える。
 中学生になると、近所に住む別な先生のところへ通うようになった。以前の先生のところがどうにかなったわけではないのだが、そこはたいてい小学校を卒業すると卒業していくような暗黙の了解があり、中学生以上は通っていなかった。
 町内には別にいわゆる書家がいて、姉や弟はそちらの先生に習ったのだが、そこで習っている人の文字はすぐに判る。それだけ影響力が強いということなのだろう。私はそんなふうに染まることが嫌で、別な仕事をしながら趣味のように夜だけ書道を教える先生のところに通ったのである。
 その頃の私は、自分の書く文字が好きになれなかった。好きになれないからできるかぎり先生のお手本を真似て書いた。そんな生徒なら先生への覚えも悪くなかっただろうが、どうも中学生時代の書道の記憶は小学生時代よりもはっきりしない。
 夜だけの教室だから、墨はたしか墨汁だった。墨を摺る時間を省略して書く時間を確保したのだろうが、それがどうも記憶の薄さに繋がっているように思える。
 私は今でも墨を摺って卒搭婆を書いているが、どんなに忙しくとも墨を摺る時間は大事にしたい。書く内容を吟味するだけでなく、無心に墨を摺っている時間そのものが心地いい。単純な作業を丁寧にしつづけることは、最も無心になりやすい状況ではないだろうか。

自意識の問題と「書は人なり」

 中学生や高校生というのは、思えば自意識が芽生える頃でもある。自意識の定義は難しいが、いわば希望と現実の落差が産みだす複雑なコンプレックスかもしれない。
 そんな時代に書道をしていると、どこかから「書は人なり」などという言葉が聞こえてきた。今となっては誰に聞いたのかも憶いだせないが、その言葉が私に与えたプレッシャーは大きかった。
 自分の書く言葉が好きになれずにいた時代に、その言葉を聞いたのである。当然、文字だけでなく、それを書く自分も嫌いになり、書けば書くほどその気持ちは強まっていったように思う。
 たしか高校に入学してまもなく、書道に通うことじたいを辞めてしまった。
 それからの私は、たぶん数年は筆文字を書かなかったと思う。考えてみればそれは、恰度自分の生き方に悩む時代でもあった。僧侶になるか物書きを目指すか、揺れながら不自由な二者択一に悩んでいたのである。
 ただそうして悩む時代であっても、私の目には魅力的な墨跡が次々と飛び込んできた。一休、宮本武蔵、良寛、大燈国師、あるいは昔の政治家や文人の書なども、なるほど「書は人なり」と思わせるものが多かった。
 自分で書く文字は二十代までずっと好きになれなかったのだが、それでも修行道場に行き、三年間「筆硯を弄するなかれ」という暮らしをしたあとで久しぶりに書いてみると、どうも字が違う。悪くないね、と初めて思えたのである。
 おそらくこれも、自意識の問題だろうと、今では思う。自意識の変化が字意識を変えたのである。このことから私がいま思うのは、壁にぶつかったらしばらく休んで気長に待ってみる、ということだ。我武者羅にぶつかっても破れない壁が、他のことに没頭しているうちに影も形もなくなってしまう。そんなことも起こるものだ。
 書は一生のもの。気長につきあいたいものである。

 月刊「書写書道」2016年4月号