うゐの奥山 その四拾八

西来院での偶然

 
 この世に偶然などないと考える人々もいる。そういう人々にとっては、悪いことが続いたりすると深刻である。必ず原因が明確にあるはずだと考え、それがはっきりしないのは自分の力不足だと思い、自責的にもなってしまう。逆に善いことが続くと有頂天になりやすく、いずれにしても接しにくい。
 一方で、この大きな世界の繋がりやうねりは信じるものの、それは到底我々に把握できるはずもない、と思っていれば、日常に起こる偶然や「ご縁」がそんな世界の氷山の一角に思え、とても楽しく感じられたりする。私の敬愛する赤瀬川原平氏は、亡くなるまですっと、日々のそんな偶然をノートに書き留めつづけていたらしい。
 そんなことを憶いだしたのは、今回講演のために出向いた沖縄でじつに不思議な偶然に出逢ったからだ。
 講演のあった二月四日は、北朝鮮によるミサイル発射予告のせいで、沖縄本島や石垣島に迎撃用のミサイルが設置されつつあった。こんな時に沖縄で講演、というのは何とも間が悪い。現実に目を背けるわけにはいかないのだが、私が準備していたのは道教的な究極の和合を象徴する「鶴と亀」の話だったのである。
 なんとか無事に講演を終え、翌日飛行場へ向かう途中、今度はしかし逆の意味で奇遇が待ちうけていた。少々時間にも余裕があったので、私は以前から気になっていた同宗同派の達磨寺西来院(那覇市首里)に寄りたいと思った。沖縄という特別な宗教空間でいかなる布教活動をしているのか、とても興味があったのである。
 小雨降る道を進むタクシーの運転手さんは、七十代だろうか、車にも人にも年季が沁み込んでいた。雨に濡れないお寺の駐車場で待ってもらい、私は階段を上がって二階の本堂に入ってみた。
 ちょうど数人の参拝客がおり、内陣では若い夫婦が子供を抱いて椅子に坐り、法衣を着た僧侶が儀式を始めたところだった。どうやら主人公は子供のようで、いわゆる「お宮参り」らしい。終わってからその和尚さんに挨拶すると、残念ながらご住職は留守だという。
 ここまでは別事ないのだが、驚いたのは駐車場に戻ってからである。今しがた本堂で子供を抱いていた夫婦が、待っていたタクシーの運転手さんと親しげに話している。しかもそのうち運転手さんは、小さな子供を抱き上げたのである。車に乗り込んでから訊くと、その子の父親は運転手さんの六番目の息子で、女の子の三十一日目の宮参りで達磨寺西来院に来ていたらしい。近くに住んでいるわけでもないと言うし、まさに奇跡的な祝福すべき偶然なのであった。
 その後、留守だったご住職夫妻から過分なお土産が届いたのは、たまたま寺庭さん(お寺の奥さん)が私の読者だったお陰だろうか。これもまた、もう一つのありがたい偶然である。


 「東京新聞」2016年3月5日