政治はこれほど無力なのか。官僚はこれほど頑なな存在なのか。福島県民は今更ながら呆れている。  
     
    福島から眺めていると、この国の中枢の動きがいかにも遠いことのように思える。つくづく人間の想像力は、興味あればこそ深まるものだと気づく。その意味では多くの人々が、日常から遠い福島を忘れ、想像もできなくなっていることだろう。いや想像力では追いつかないから、ここにお示ししたいのである。「日本再生」などと考えるまえに、いやその前提として、まず福島の現状を知り、その再生を考えてほしい。伝教大師じゃないけれど、一隅を照らせないなら、国全体のことなどもとより望むべくもないからである。

 福島県内では今年、交通事故やそれによる死者、負傷者が信じられないほど増えた。事故件数も負傷者数も、全国でワースト2である。
 いったいどういうわけかと考えるに、やはり仮設住宅や借り上げ住宅など、住み慣れない環境での暮らしが大きく影響している。高齢の死者だけでなく、夜間の歩行中の事故、飲酒運転による事故も激増している。
 仮設住宅暮らしは当初二年間と言われたわけだが、それで済まないことははっきりしているのに、いつまでなのかは皆目わからない。この底の見えないストレスが、いろいろ想定外の事故を生みだすのだろう。
 避難住民を受け容れた市町村にも、じつは困った問題が発生している。大勢の人々を受け容れるに当たり、各市町村は本来は住民のためにあった施設を幾つも避難者たちに提供した。たとえば我が三春町の場合、仮設住宅が造られたため地域のゲートボール場がなくなり、子供たちのための自然観察ステーションは移住町村の役場になってしまった。そこで町としては住民へのサービスを復活すべく代替え施設を造りたいのだが、それを復興交付金から支出することは認められないというのだ。
 どうしてか。単に想定していなかったから文面にないだけのことだ。おいおい、想像力不足を棚に上げて、ふざけないでもらいたい。
 除染はどうかというと、ここでも想定外のことが起ている。各家の周囲二十メートルを除染すべく、行政によって除染作業が発注されつつあるが、山間部の家だと周囲二十メートル以内に竹藪も林もあるため、除染によって出る廃棄物の量が想像を遥かに超えてきた。従って仮置き場がこれまでの想定以上に広く必要になる。むろん町場ではまだ仮置き場が決まらないところもある。いわゆる「中間貯蔵施設」の問題だけでなく、それ以前にも問題は山積なのである。
 野田総理による原発担当大臣の変更も、明らかに中間貯蔵施設の解決を先延ばした。細野氏の声を聞き始めていた双葉郡の首長たちは、まとまるはずのない民意に再び向きあい、立ち往生しているのである。

 政治とはこれほどに無力なものだったのか。官僚とはこれほどに頑なな存在だったのか、我々福島県民は今更ながらに呆れている。
 最も呆れるのは、なんと言ってもお金の使われようである。復興のために使われるはずのお金が、ダダ漏れに漏れている。これではいくら復興増税などと訴えても無駄だろう。
 諸悪の根源は、国民全体に漲るおねだり体質なのかもしれないが、やはり制度として、平時のように各省に配分し、しかも年度内に執行すべしというやり方を変えられなかったのが問題なのではないか。
 昨年四月、菅総理の呼びかけで発足した復興構想会議は今年の二月末、復興庁から解任の文書が届いておしまいになった。いくらなんでもうるさ型の多すぎるあの会議を、野田総理はそのまま引き継ぐ気にならなかったということだろうか。それとも、そう思ったのは各省から出席していた官僚たちだろうか。
 いずれにせよ、我々が提言した「復興への提言」が厳正に執行されているかどうか、厳しくチェックする人はどこにもいなくなってしまった。その結果幾つもの特区構想や特例での対処法は無視され、まるで平時の如くに各省庁は規定どおりのやり方を要求する。それが一番ラクなのは承知しているが、今は非常時なのだと重ねて申し上げたい。
 所詮、現場に行かない人々が重要なことを決めるから困るのである。「ガレキ」の問題にしても、実際にガレキを処理する事業者を呼び、経費のことも含めてトータルに議論したらどうなのか。
「絆」はどうなったのかと感情的に「ガレキ」処理への協力を訴える人々も、百メートル離れれば放射線量が一万分の一に減る事実も知らないかに思える反対派の人々も、少し冷静に費用対効果を見ながら考えるべきではないか。地元で処理する場合と、たとえば北九州で処理する場合の費用の違いなど、どこにも出てこないのは何故なのか。業者を誰も呼ばないから計算しようもないのである。
 実務的なレベルでの検討があまりに甘いため、曖昧な話が国民を二分するような論争を招く。原発再稼働の問題も、すべてそうではないか。
 ことに福島県では、低線量の被曝についての解釈を巡って、新興宗教の分派めいた確執を抱えてしまった。離婚、別居、それも多いが、そこまでは行かない家族でも、怯えながら五万人以上の人々が故郷を離れて県外に出て行った。最も多くの避難者が暮らす山形県によるアンケートでは、月々十万円未満で暮らしている避難家族が四割を超えている。
 この深刻で厳しい分裂状態に対しても、政府がとっている基本的な態度は、「あなたの思想・信条を尊重します」、もっと砕いて言えば、「すべて自己責任なので好きにしてください」というものだ。
 要するに、この線量は大丈夫なのか、という問いかけに対し、何も答えないのである。それはそうだろう。内閣府は年間二十ミリシーベルトまで許容し、厚生省はとんでもないと異様に低い数値で飲料水などを規制する。そして文科省が給食に設けた基準値は、また全く別なのだ。統一見解を出さないだけならまだしも、各省がばらばらな基準を作って翻弄してくれるではないか。
 ガレキ処理の問題でも、各市町村や都道府県知事からは覚悟を伴った発言も聞かれるものの、国の態度はいつまでも煮え切らない。誰も責任をとる気がないのである。すべてのおいて、基本的な共通認識を持てないままに個別に向き合うから、強く圧されればお金はだします、となってしまう。
 こんな国に税金を払うのは、気まぐれで金遣いの荒いヤンチャ坊主に ベラボーな小遣いを渡すようなものではないか。
 うちの町など、西日本にはもっと線量の高い町もたくさんあるといいうのに、来春までに除染で二十八億円使う予定なのだ。お隣の郡山市では除染対象約十万戸を毎年二万五千戸ずつ四年間ぜ実施する予定だが、毎年三百三十億円以上かけ、しかも仮置き場が一切決まらないから庭の片隅に置く、という。
 むろんそれが無駄とは言わないが、除染が不可欠な状況だと思うなら、どうしてそこに子供たちを集めるような催しをするのだろう。
 もうこの国は、共通認識をつくることを諦め、お金は出すから好きにしたらいいと、突き放しているようにしか思えない。
 除染作業員の賃金格差もやりきれない。ゼネコンが元請けの場合、一人当たり四万三千円と聞いたが、いくら何でも高すぎないか? むろん現場の作業員は四次請け、五次請けが多いから、実際には一万円前後しか貰っていない。しかも国負担で特殊勤務手当として支給したはずの三千三百円~一万円は、どこかにピンハネされて消えてしまっていた。国からゼネコンへ、気前よく寄付したようなものではないか。

 いま福島県では、どこの市町村でも除染と米の検査に明け暮れている。うちの町でも島津製作所製の「FOOD EYE」を設備し、四人一組の態勢で休日も祭日もなく全袋検査を続けている。
 じつは野田総理が「解散」発言をした十一月十四日、新聞各社は「激震」とそれを表現したが、三春町には全く別な激震が走っていた。
 九月から測定開始した米はすべてND(不検出)で通過していたのに、ある一軒の農家が運び込んだ三袋の米だけが三百ベクレルを超えたのだ。
 昨年休耕した田圃に、彼は耕しもせずに直播きしたらしい。父親が苦労して買い入れた田圃を遊ばせておくのも忍びなく、何もしないよりはとそんなやり方をしたらしいが、それがどんなに特殊なやり方かは農家でなくともわかるだろう。町中の農家の落胆は計り知れない。
 しかし町内ではその特殊性が認識されても、県に行けばその地域全体の問題に広がる。さらに全国ニュースになれば、町は勿論福島県全体の問題になってしまうのだ。
 基本的に福島県民は、もう風評被害は防げないものだと思いつつある。よほどの興味と熱意がないかぎり、我が身を安全を最優先するのは人情の常だし、情報が単純化するのもごく自然なことだからである。
 今年五軒目の米の基準値超えが発覚したその日、県内は一様に沈み込んだ。
 野田総理が解散を宣言し、選挙を行なおうとしたのは、福島のこういう状況においてであったということを、知っていてほしい。
 被災市町村は除染をはじめ復興業務だけでも超忙しい。そこに一ヶ月での選挙準備が加わり、投開票場の確保にも苦労し、何より全国一斉投票だから昨年の県議選のように他行政からの手伝いも得られず、無理な人員体制でようやく開票結果が出た、今はそんな状況のはずだ。
 この国の再生のために求めるのは、なにも特別なことではない。想像力の限界はよくわかっているから、せめて「一隅」に出向く誠意と行動力、そして無駄遣いせず、人情がわかる、普通の政府が欲しい、それだけである。
 

 
「新潮45」2013年1月号