其の弐拾九  
     
   何年かまえ、ヒトゲノムつまり人間の遺伝子の解読に、各国の学者さんたちが必死になっていた。皆、それが分かったら人間の設計図が分かるのだと、ずいぶん期待しながら待っていたような気がする。どうやら三十億の塩其配列はすべて解読され、いわば遺伝子の地図ができあがったらしいのだが、いっこうにニュースにならない。いったいどうしたことかと思っていたら、つい最近その理由が分かった。養老孟司先生の『「自分」の壁』(新潮新書)に、驚くべきことが書いてあったのでご紹介したい。
 解説の結果分かったことは、期待された「タンパク質合成」に関与するものは、全体の1.5%にすぎず、残りの98.5%は、じつは何をしているかよく分からない、というのである。しかも驚いたことに、約30%ほどの遺伝子は、もともとは外部のウイルスだったらしい。解読の偉業が新聞のトップで報じられなかったのも頷けるだろう。
 むろん、ウイルスとはいっても病原体ばかりではなく、人間と共生できるものがたくさんあるらしい。その昔、人体とも呼べない頃に入り込み、お、ここは居心地がいいと、気に入って代々住み着いてしまった生き物が無数にいるということだろう。
 じつはそのようなものとして、一九六〇年代にアメリカのリン・マーギュリスは、細胞内のミトコンドリアを「発見」した。そして彼女は、ダーウィンの『種の起源』に代表される「適者生存」の理論に反対し、「共生」こそが生物進化の原動力だと訴えたのである。
 このマーギュリスによる論文は、学術誌への掲載を十七回も拒否されたというから驚く。進化論への信仰という障碍と、アメリカ人がよほど「共生」嫌いなせいだと、養老先生はおっしゃるのだが、くじけない彼女の信念にも頭が下がる。
 ウイルスのことだけでも驚くべき話だが、養老先生はさらに青虫と蝶の関係もそうではないか、という。ヤゴからトンボになる場合はある程度元の身が受け継がれるが、青虫から蝶への移行(完全変態)では前身が完全に破棄される。だからあれは、別な生き物の共生ではないか、とおっしゃるのだ。蛹の間に入れ替わるのだろう。
 そう言われてみれば、ヘルペスがじつは昔罹患した水疱瘡の菌による病気だというのも、なんとなく納得できる。また、以前から不思議に思っていたのだが、なぜか遺体にはどんな状況で亡くなっも蛆が湧く。いったい蝿はいつ、卵を産んだのかと訝しかったのだが、そうではないのかもしれない。
 人間に限らず生き物は、もしかするとこの世では共生できない生き物まで抱え込んだまま、平気で生きているのではないか。生きるとは、なんと凄いことなのか。

 
東京新聞 2014年8月2日/中日新聞 2014年8月16日【生活面】 
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