其の拾九  
     
    9月初旬、原発被災地である富岡町の居住制限地区に行ってきた。私のお寺が所属する京都の大本山妙心寺派の教学研究委員の面々を、OBも含めて十名ほど被災地へ案内したのである。
 むろん私が富岡町の詳細を知るはずもなく、本当の案内役は居住制限地区に自宅のあるSさんである。Sさんは現在、三春町の仮設住宅に住んでおり、八十四歳ながらじつに元気なのである。
 田村市都路地区から川内村を通り、富岡町の役場にほど近いSさんの自宅まで、バスで約一時間半ほどかっかっただろうか。
 薄暗くなりかけた庭に降りたつと、草も刈られ、庭木も整っている。どうしたのかとSさんに訊くと、息子夫婦が一週間ほどまえ、今日のために庭掃除に来てくれたのだという。私が時ならぬ里帰りをお願いしたために息子さん夫婦にまでご迷惑をかけてしまった。
 Sさんが忘れた家の鍵をバスに取りに行くあいだ、全国から集まった委員たちは一本ずつ渡してあった線量計を地面に近づけ、あちこちで測っていた。「あ、3マイクロだ」「いや、こっちは4マイクロありますよ」と驚きの声をあげる。さっき川内村を通ったときは、毎時〇.二マイクロシーベルト程度。それが十倍以上に跳ね上がったのだから当然の反応かもしれない。
 家に入るとすぐに仏壇に火を入れてお線香をあげ、裏返っていたSさんのご両親と祖父母の写真を起こしてお経をあげた。雨漏りのないSさんの家は、約四十日ごとに戻っているだけあってさほど酷い状態ではなかったが、経中、先祖の眠る安住の地を奪われた人々への思いで、喉がうまく開かなかった。
 無人の家々が立ち並ぶ住宅街には、放置されたままの車や自転車が何台もあった。どの家の周囲も丈高い草に覆われ、すぐに近くの帰還困難地区のほうはまるで「藪に沈む町」だった。
 新しい家も古い家もある。大きな屋敷もあればアパート、コンビニもあった。しかしどこも皆、血流のない死んだ細胞のようなのだ。常磐線の線路に盛り上がって跋扈する大量の草や低木たち。まるで巨大なオロチのように鉄路を完全に隠している。植物の野生だけがひと連なりに町を覆っているようだった。
 元気なSさんではあるが、最近は「腹に力が入らなくなる」と、話していた。私にはその腹の力が、生きる気力のように聞こえた。なにかにつけて「朽ちつづける家」が憶いだされ、それが浮かぶと、もう腹から力が抜けて仕方ないというのである。
 人は案外、ささいなことを生きる支えにできるものだ。それを奪われた人々の苦悩を少しでも想像できるなら、少なくとも福島県内の全ての原発の廃炉は正式に決めてほしい。オリンピックに使う電力のための再稼働だけは、勘弁していただきたい。
  

 
東京新聞 2013年10月5日/中日新聞 2013年10月19日【生活面】 
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