世の中では「読書の秋」と言われる。しかし「食欲の秋」でもあり「スポーツの秋」でもあり、また各種イヴェントも秋には目白押しである。忙しすぎて、本など読んでいられないのではないか。
 私のなかでは、やはりまとまった読書ができる季節は冬だったように思う。子どもの頃から、クリスマスのプレゼントは必ず本だったし、雪が降って炬燵で本を読む時間は格別な至福のときだった。
 むろん、雪なら雪で、スキーや橇遊びで忙しくもある。しかししんしんと雪が降っている最中は、観念して本を読む。雪が降る音やときおり屋根から雪が落ちる音は、奇妙な静けさと寂しさとをつくりだす。特に年が明け、正月の賑やかさが去ったあとなど、そんな音のなかで活字を追っていると、自分の頭のなかにできた別世界にすっかりのめり込んでいったものだ。
 子どもの頃は、雪ももっと降ったような気がする。そんな日は、客も少ないし、単調なのだ。だからきっと、何度か雪掻きやスキー、橇遊びをしたとしても、その時間が全く読書の妨げにはならなかったのだろう。いま憶いだしても、雪景色の具体的な映像は浮かばない。まるで現実に紗を掛けたように、雪が頭のなかを鎮めてくれたのではないか。最近はメイル一本書いても気分ががらりと変わり、再び読み出した本の世界にすぐには戻れないことがある。思えば子どもというのは、社会の波を直接浴びなくていい「守られた時間」だったのである。
 そういえば、守られた時間はほかにもあった。病院に入院していた時間である。
 中学三年生の夏に、私は日本脳炎で入院したのだが、無事ではあったものの入院期間は約四十日に及んだ。その期間も、思えば読書三昧の日々だった。なにより父に勧められて読んだ『宮本武蔵』(吉川英治著)と、北杜夫さんの『幽霊』が懐かしい。
 特に『幽霊』は、ちょうど幼少期から少年期にかけての物語でもあり、自分のなかに未だ残っていた幼少期を確認し、現在進行中の少年期をみつめる視点もたくさんいただいたような気がする。
 読書の功徳は、第一はなんだかよくわからない面白さだろうと思うが、それに付随して別な人間に憑依する楽しさもある。
 いや、憑依というより、おそらくそれは自分なかに眠っていた見知らぬ自分の開発なのだと思う。その意味では『幽霊』は、一見理解しがたい矛盾が自分が自分のなかに混在することを、柔らかく容認してくれたような気がする。もっとはっきり言えば、『幽霊』を読むまえと後で、私の人生は変わった、いや、人生というものを初めて自覚的に考えたのかもしれない。 
 『宮本武蔵』はとにかく理屈ぬきで面白く、読みやめることは不可能だった病院にいながら荒野を彷徨ったり剣術の試合に臨んだりした体験は、ある意味で時間の重層性を知る大きな契機だったのかもしれない。
 ともあれ、それは我ながら羨ましくなるほど、大人たちに「守られた時間」だった。最近の子どもたちの読書量がもしも少ないとするなら、そこには守るべき大人の怠慢も関与しているのではないか。
 あるいは大雪や入院など、思うに任せぬ時間が昔よりも少なくなっているのかもしれない。
 決定的な本との出逢いは、結局は「邂逅」とも呼ぶべき偶然性に満ちている。大雪や入院のように、計画的には叶わない出来事なのではあるまいか。
 いまの私はそんな天恵の如き出逢いが誰かにたまさか起こることを念じつづけているのである。


 
「荘内日報」 2012年8月26日