震災から一年、じつにいろんなことがあった。まず何よりも、一万六千人以上の人々が津波によって亡くなり、そのうえ三千人以上の人々が行方不明のままだ。うちの○○に限っては、どこかの浜に打ち上げられ、記憶喪失になって生き延びている可能性だってあるじゃないか……。そう思って死亡届を出さない遺族もいる。つまりはそんな諦めきれない気持ちのまま、暮らしている人々が今も大勢いるということだ。。
 人は儀式を行なうことで、悲しみの時間が全体に波及することを防ぐ術を身につけた。つまりその時にまとめて集中的に思い、悲しむことで、あとは日常に戻ることができるようになったのである。一周忌という日を迎え、何らかの儀式が行なわれ、遺族が少しでも明るい方向へ歩きだすことを切に願う。
 さて、一年経ってあらためて思い返すのは、昨年三月十六日、天皇陛下がビデオ録画によって発されたお言葉である。
「五日前から厳しい寒さの中で、多くの人々が、……極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。……この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」
 この「雄々しさに深く胸を打たれている」という言葉に、私は深く胸を打たれた。
 思えば昭和天皇も、昭和二十二年八月に常磐炭坑を訪れた際に、次のような御製を残している。
 暑さ強き磐城の里の炭山に働く人を雄々しとぞ見し
 さらに昭和二十一年、終戦後まもない正月に詠まれた御製は、これである。
 降り積もる深雪に耐へて色変へぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ
 昭和天皇にとっても今上天皇にとっても、「雄々しさ」は特別思い入れの強い言葉に思える。それがあの時、熱い思いと共に胸深くまで染み込んだのである。
 その後、両陛下は、ブータン国王夫妻をお招きになった。若い二人は、僧侶たちを従え、被災地まで来てくれた。あらためて何のため、と考えると、悼み、慰め、励ましに、ということだろうか。彼ら自身「親愛の情」を示しにきた、とも発言した。私はこのとき、今の日本の経済社会ではほとんど見られなくなった「用件」に感動した。「親愛の情」を示し、「祈る」ことが彼らには重要な用件だったのである。
 思えば東北の地は、縄文文化の土壌である。自然から恵みをいただく狩猟採集生活を送り、その時代には一件も殺人が行なわれなかったという。殺人は弥生時代、富の蓄積が行なわれるようになってからの出来事である。
 赤うるしの「糸玉」が各地で見つかっているが、何らかの「祈り」が行なわれていたことも間違いない。そして彼らは、亀ヶ岡土器に見られるように高い芸術の意識さえ持ち合わせていた。
 私は陛下の言葉とブータン国王夫妻の振る舞いに、そんなことまで思っていた。そして「みちのく(道の奥)」という言葉が、けっして蔑称などではないことを確信したのである。
 この国は、しばらく世を挙げて市場経済や効率最優先の価値観を邁進してきた。集約化し、競争に勝つことが正義、というのが新自由主義と呼ばれるものの正体だろう。
 しかし「道の奥」には何か分からない価値観が蠢いている。そこではどうも、お金では買えない不思議なものばかりが珍重される。そういうことではないか。それこそ「道の奥」の意味するものではないか……。そう思ったのである。
 陛下は、ブータン国王を招いてまで、そのことをお示しになったのではあるまいか。被災地の再生に当たり、「道の奥」の人々が持ち前の「雄々しさ」と「祈り」を保ち、「親愛の情」を失わないようにと……。
 これまで、被災地の人々は、間違いなくそのことを忘れずに暮らしてきたと思う。仮設住宅での自治や協働の在り方にもそれは現れているはずである。
 しかし今、放射能という姿なき敵に囲まれながら、我々はそれらを失いつつあるのではないか。
 町を出る、出ない、県産野菜や米を食べる、食べない、さらには除染して戻ろうという町に、戻る、戻らない、という分断が幾重にも起こっている。
 放射線量を厳密に測りながら、しかもその結果がND(不検出)であっても食べない人々がいることに、私は苛立つ。それは、見えない敵への「思い」による敗北ではないか。
 「思い」が、「親愛の情」も「祈り」も「雄々しさ」も蹴散らし、終わりなき分断を生みだしているように思える。
 「道の奥」のコミュニティーの再生という、最も重要な命題を再び憶いだす必要があるだろう。みちのくという異界の人々の底力が、今こそ問われているのである。

 
      
北海道新聞 2012年3月16日朝刊 
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