気仙沼の地福寺(ぢふくじ)さんにようやくお見舞いに行くことができた。
 噂には聞いていたが、想像していた以上に凄惨な景色に愕然とした。お寺の本堂や庫裡の梁まで津波が届き、柱が太かったためなんとか修復はできそうなのだが、海岸からお寺までの家々は完全に跡形なく消え去っていた。
 和尚さんは外の雪景色を眺めて説明しながら、その目に涙を滲ませる。お婆ちゃんと娘さんが亡くなり、孫だけが助かったとか、お婆ちゃんが忘れ物を取りに戻ってそのままになったとか、すべて故人の顔を浮かべての話なのだから無理もない。津波での死者は、檀家さんだけで百五十人もいたのだという。
 ちょうどお邪魔している最中に来客があり、同席しているうちに私はちょっとした感動を味わった。客は二人とも大学の先生で、気仙沼復興のためボランティアで入っているのだが、二人とも海岸近くへの植林を進めようとしている。ツバキ、サカキ、タブなど、この土地に合った照葉樹を植え、津波への自然な耐久力のある海岸にしていこうと、和尚さんとも相談しながらすでに苗の植え付けを始めたようだ。彼らによれば、昔ながらの白砂青松プラス照葉樹の浜辺こそ、最も津波の緩和力も期待でき、それこそが日本に合った風景でもあるという。
 私が感動したのは、こうした発想に、多くの知人や友人を亡くし、今も行方不明の親族を抱える人々までが賛同しているということだ。たいてい交通事故などで家族を失うと、「二度とこのようなことが起こらないように」と、法律の厳罰化などを望むことが多い。この場合であれば、国の復興構想の基本のように、高い防波堤を作ったり、地面を嵩上げすることがそれに当たるだろうか。
 しかし彼らは海を車や運転手のように怨んだりはしない。そんなことで対抗できる相手じゃないことも、あれほど暴れた海に他意などないことも、翌日の凪いだ海を見るまでもなく重々承知しているのだ。
 なにより海は、大勢の死者たちを呑み込んだまま鎮まり、今も恵みを与えてくれている。怯えつつ宥め、恵みをいただくという古来からの海とのつきあい方を、やめるわけにはいかないということだろう。
 大学の先生たちは、松島のような自然の防潮林こそ「レンズ効果」でしなやかに波を和らげ、実際には強いのだと言うが、遺族たちは、本当はそれだけでは怖いのではないか。なにより木が大きくなるには時間がかかる。それまでに次の津波が押し寄せないとも限らない……。しかし彼らはたぶん、怯えを失いたくないのだ。鴨長明は『方丈記』のなかで、もう大丈夫という防備をすると、たちまち死者たちを忘れ、語らなくなってしまうと書いている。彼らは怯えを保つことが死者を忘れないことだと、気づいているのだと思う。気仙沼の人々は、だから復興のキャッチフレーズも「海と生きる」に決めた。
「この町は凄いべさ」と、地福寺さんは言う。本当にそう思う。それは恰度、溺れかかったときに水に身を任せることや、雪道でスリップしたほうにハンドルを切る勇気にも似ている。しかし考えてみれば、これほどの命を呑み込んだ海を敵にまわすなんて、初めからできるはずがない。「海と生きる」ということは、あの人の面影を浮かべ、時には声も聴きながら、あの人と共に生きていくことではないか。



 
岩手日報 2012年3月14日 特集13面