近頃、住職が寄れば、きまって「葬式は要らない」なんて、という話題になる。おまけに檀家からも同じような問いかけをうける。どう答えたらよいのか。  
     
 
 その判断ははたして妥当なのだろうか

 下り坂の民主党政権をなんとか下支えしているのが「事業仕分け」とも見えるこの頃だが、どうもこの「仕分け」の発想が、あちこちに飛び火している気がしてならない。
 葬式は要らない、戒名は要らない、揚げ句にお墓も要らないと来た。
 そうした発想に共通しているのは、あくまでも経済原理、効率優先の考え方である。「無駄を省く」ことで足りない予算を補おうとするように、仕分ける人々は自分の人生についても、役立つことばかりで満たそうとするかのようだ。
 しかし『荘子』の「無用の用」を俟つまでもなく、人間に見えるのはあくまでも目先の用だけである。なにが無駄なのか、分かるつもりでいるところが恐ろしい。
 この流れで行けば、たとえば小学校や中学校で学ぶ教科さえ、将来的に不要と思えば省くことになるのではないか。いや、実際すでに、小学生も低学年から英語を学ばせようという制度改定に、その発想は現れている。明らかに将来に役立つと、表面的に見えるものばかりに限られた時間を割くのだから、すぐには役立たないと思われる教科がワリを食っているのは間違いない。
 しかし、その判断ははたして妥当なのだろうか。
  年ごとに咲くや吉野の山桜 木を割りて見よ花のありかを
 いくら詳しく木のなかを調べても、花はない。もっといえば、受精したばかりの受精卵にだって、まだ神経も意識もない。気の早い仕分け人ならば、無用の木や卵と判断して、処分してしまうことだろう。
 しかし無かったはずのものが現れるのが成長の喜びであり、また人生の妙味ではないか。
 長年かけて培われた制度や儀式は、これと同じように後になって開く花の素ではないか。それは文明と呼んでもいい。普通に考えれば、一介の人間が、要るの要らないのと仕分けようという神経じたい、どうかしている。
『葬式は、要らない』という本を読んでみると、残された人々のための視点があまりに欠如していることに驚く。自然葬など、自分の骨を海や山に撒いてくれ、という人々にも共通することだが、なにより彼らにとってそれは、自分が判断して決めるべき事柄だと信じて疑っていない。それが不思議である。

 基本的に自己決定できるような問題ではない

 自分のお葬式や骨は、本当に自分のものなのだろうか。
 この点については、最近注目される臓器移植に関する法律も、微妙に揺れている。一九九七年に施行された臓器移植法では、死後に臓器を提供するかどうかは本人の判断に委ねられた。提供してもいいと考える人がドナーカードを持ち、その場合は通常の三微候死(心停止、呼吸の停止、瞳孔の散大)ではなく、脳死を以て死とした。そのため、死は二つの規定の併用(ダブルスタンダード)になってしまい、いろんな問題を孕んでしまったわけだが、間違いなくいえるのは、ここでは遺体や臓器が本人のものと考えられていたことだろう。
 しかしその方法ではあまりにドナーが増えないせいか、外国に出かけて移植医療を受ける人々が増えつづけ、それが国際的な批判も受けた結果、二〇一〇年に施行された改正臓器移植法では、本人の了承がなくとも家族の同意さえあれば臓器を取れることになった。しかも十五歳未満でも、である。
 当初は「死の自己決定権」といい、臓器の提供についても、自分で判断すべき、としたのに、いったいこの変化はどうしたことだろう。
 私には、臓器が欲しいゆえの、あまりに浅ましい変化に思えるのだが、結果として死や遺体が自分のものではない、という方向に動いたことだけは評価できる。
 しかし死も遺体も、むろん家族の誰かのものでさえないのだから、法律改悪には違いないのだが……。
 複雑な例を出してかえって問題を分かりにくくしてしまっただろうか。要するに私が申し上げたいのは、死も遺体も、お葬式もお墓も、基本的に自己決定できるような問題ではないのではないか、ということだ。
 お葬式は喪主にしてもらうのであり、お墓もお参りする人あってのお墓である。さらにいえば、戒名だって、本来は違った意味があるにしても、現状では死後にその人を憶いだすヨスガではないか。
 そういった自分以外の人間に供され、任されるしかない事柄を、自分で決めてしまえると思うのは、いったいどういう根拠なのか、これも不思議なのである。
 一言でいえば、それは増上慢だろう。
 現政権の、官僚たちへの態度にもそれは感じる。天下りや出し過ぎる恩給への制限など、たしかに密室めいた官僚世界に風穴を開けた功績は認めたい。しかし蓄積された大量の知識をもつ事務官たちが、あれほど恥をかかされてなおかつ気持ちよく仕事をしてくれるものだろうか。あまりに甘い人間理解としか、私には思えないのだが……。
 つまりそれと同じように、死後に関するどのような自己決定も、残された人々の感情を汲み取っていないかぎり、気持ちよく履行されていないどころか、そのまま履行されることさえ難しいのではないか。私はそう思う。なんとしても履行させようと、最近では弁護士を立てて遺言に法的な効力を持たせたりしているが、自分の死後がきちんと想像できないのは、政権奪取後の想像がうまきくできなかった現政権と一緒である。
 あまりに無知な時点で描かれたマニフェストに振り回されるように、人は想像のできない死後についての無邪気すぎる遺言に振り回されるだけだろう。悲しい、というより、あまりに馬鹿げてはいないか。
「死に際のわがまま」は認められるべきだと書いた人もいるが、死に際までずっとわがままの言い放しではないか。
 いや、そんな大上段なことではなく、ただ費用がかかりすぎるというだけなのだと、「要らない」派は口をとがらすかもしれない。
 しかしそれなら、葬儀に平均二百三十万円かかるという事実に並べて、日本人は結婚式にも平均三百三十万円かけていることを併記すべきだろう。結婚式にそれだけかける人々が、葬儀にはいったいどれくらいかけるのが妥当なのか、お金の問題だというなら、問題の本質はそういうことではないだろうか。

 人は彷徨いつつ成長していくもの

 どうしてそこまで我々が増上慢に陥ってしまったのか、と考えると、大袈裟に聞こえるかもしれないが、私には、「自己」そのものへの捉え方のせいにも思える。
 幼い頃から「個性」を伸ばせと繰り返しいわれ、どいうやら我々はそのようなものが「ある」と思い込んではいないだろうか。
 ご承知のように、個性とはpersonalityの訳語、いわばキリスト教の、「ペルソナ」に由来する自己概念である。ペルソナとは、神学のなかでは神様の欠片のようなものと考えられ、それゆえ個性という言葉は美点として褒められるべき部分だけを意味する。
 そのことについて、最近チャールズ・テイラーの刺激的な論考を読んだのでご紹介したいのだが、『自我の源泉』(名古屋大学出版会)という彼の労作によれば、人間をとにかく偉い存在、個性や理性をもって善悪を判断できる偉大な存在と捉えたのは、デカルトやロックやカントだが、テイラーはその見方に異を唱える。
 人間はデカルトの『精神指導の規則』やロックの『人間知性論』にいわれるほど、機械のようでもないし、最初から完成しているわけではない、というのである。デカルトやロックは人間を機械に準え、扱い方さえ誤らなけでば誰でも充分な理性や判断力が示せるものだと考えた。しかしテイラーによれば、そこには彷徨いながら成長していくという「時間」についての発想がない、というのである。
「時間」を「経験」と置き換えてもいい。とにかく人は、最初から偉大なのではなく、道徳や善を求めて彷徨ううちに、成長する存在だというのだ。テイラーが共感するのは、その意味で、ルソーの『エミール』やモンテーニュの『エセ―』、プルーストの『失われた時を求めて』などである。明確な結論が出せないまま、そこでは人間の彷徨そのものが時間によるあてどない変化として描かれるのである。

 人類は他者を「想う」ことによって人類になった

 人類は、おそらく死者も含め、他者を「想う」ことによって人類になった。よくいわれるように、ネアンデルタール人は死者の亡骸の下に花を敷いて埋葬したというけれど、これも「想う」能力の著しい進歩のせいではなかったか。
 むろん、「想う」能力によって人は恐れも生みだし、それに対処するためにこそ宗教を生みだしたようなものだから、自家撞着のようなものだ。しかしそのような人間の特性は、遺伝子として受け継がれる素質はあるとしても、時間あるいは経験によってそのつど個人ごとに目覚めていく特性である。だからこそ、人生はそれぞれがわざわざ生きるに値するのだろう。
 時間による人間の変化、それを最大のテーマにした生活のことを、我々は「修行」と呼ぶのである。
 日本人は、そのことをよく了解していたからこそ、通過儀礼を大切に考えたのではないか。誕生から七五三、そして元服、今なら成人式だが、それから結婚式、厄年、還暦などと続き、最後に葬儀がある。むろん自分の葬儀は体験できないわけだが、そこは「想う」人間のことだから、他人の葬儀から充分想像できるはずである。
 母親の胎内に宿った命は、人類の辿った進歩を追体験しながら大きくなる。そして誕生後も、幼児は時間と経験によって次第次第に大人、というより人間になっていくのだろう。
 その際、死者を見送り、死者の墓を訪れることが、人間にどれほどの成長を促すことだろう。極論かもしれないが、人はその体験によってこそ充分に「想う」能力を涵養できるのではないか……。
「要らない」発言はおそらく発言者の意図を超えて、そのような時間による成長を無意識に否定し、デカルトやカントのように神の如き完璧な理性を想定しているのだろう。
 そのせいかあらずか、いまの日本にはきわめて短い時間しか待てない人々が溢れている。いわば人を育てる、という視点が希薄になり、出来上がった花を摘むような感覚で人を選ぶ。初めはヘッドハンティングといわれる経済界だけの現象だったのが、今や自分や他人の人生に対しても都合のいい「花」だけを摘む発想になっている。それこそが、「個性」と呼ばれているのではないか。葬儀やお墓への軽視は、テイラーの言う「時間」の軽視、そして近視眼的な善悪の判断を絶対化する人間の傲慢さの結果と思えて仕方ないのである。

 人の死がコンビニやユニクロと同じでいいのか

 この夏(二〇一〇年)、流通大手のイオンが葬儀のお布施について基準額を示したことが問題になり、全日本仏教会は緊急にシンポジウムを開いた。
 要は葬儀という宗教儀礼までが、「商品化」されたことが問題だったわけだが、この問題にも一連の「要らない」そぶりと共通の根を感じる。
 極端な言い方をすれば、高くて「要らない」というから、廉いパック商品を用意したのである。
 もともと大手の企業は、二〇四〇年までは増え続けるという葬儀に対し、大きなビジネスチャンスとして参入の機会を待っていた。
 都市部にはいわば宗教的浮動層とでも呼ぶべき人々が大勢おり、菩提寺や場合によってはお墓もないことが多い。いきおい、もしもの時には葬祭業者にまず連絡することになり、そこでうっすら記憶する故郷のお寺の宗派などから、同じ宗派の僧侶を紹介しましょうか、はい、お願いします、ということになるのである。
 このような一過性の関係のなかで、「お布施」の理屈を通すことはもとより難しい。実際問題としてそこでやりとりされるのは「ギャラ」なのだから、定額化しようという欲求は自然なことだろう。
 私はだから、どうしても必要な人々にそのような斡旋が行われることに反対なわけではない。
 同じやり方を、全国一律に、菩提寺があろうとなかろうと、推し進めようとしたことに憤りを覚えたのである。
 鉄道が通ったら全国各地の個別な文化が壊されてしまう。そういって危惧した柳田國男の時代はもうとっくの昔である。今や全国共通のコンビニやユニクロが、同じものをどこでも同じ値段で売っている。それなら葬儀も、同じようになってもいいではないか。そんな人々の声が聞こえてきそうだ。
 しかし、それだけでは肯うわけにはいかない。
 葬儀ほど地域差があり、また個別なものはない。とにかく儲けようという企業には関係ないことかもしれないが、お寺の檀家さんには当然のことながら生活の苦しい人も豊かな人もいる。フリーターなのに出来てしまった子供が死ぬということもあるし、離婚後、子供二人を残して三十代で死んでしまう母親だっているのである。
 そのような人々の葬儀を、いったい彼らはどう考えているのだろう。いや、間違いなく、彼らはさまざまな個別のケースを考えていないからこそ、基準などが作れるのである。
 もともと慈善事業ではなく、彼らは商売として葬祭業をしようとしているのだから、それは当然である。そこに良心を期待しすぎるほうがおかしい。
 問題なのは、そのような市場原理のなかで行なわれる「パック商品」としての葬儀が、支持されてしまう現実のほうだ。

 遺族の元に出向く担当者を「営業」と呼ぶ人々

 格差社会が多くの貧しい人々を生みだし、彼らをも消費者として取り込もうとする企業は、とにかく廉さだけを競い合う。それは殆どすべての業種に共通する現在のマーケット戦略なのだろう。
 大手の葬祭業者ほど、廉くできる強い体質を作ろうとしてきたわけだが、それはどういうことかといえば、まず男性の専門職をできるかぎりリストラし、素人でもいいから、廉く雇える女性の職員だけで賄うシステム作りである。加えて儀式担当と営業担当を完全に分け、司会も必要なときだけ外注する。そうすることで、最も少ない人員、費用での営業が可能になる。
 当然のことながら、街場の葬儀屋さんのように、同じ担当者が最初から最後まで一貫して遺族の相談にのる、ということはない。見廻してみると、いつのまにかそのような業者ばかり大きくなっていたのである。
 亡くなった故人の家族の元に出向く人を「営業」と呼ぶだけでも驚くが、しかも彼らは一定のスタイルをパックとして売るだけで、例外的な希望に応じようとはしない。たとえばお通夜だけでも自宅で、といった希望に応えると、通常の人員では廻らなくなる。出棺のとき自宅前を通るなど、さまざまな方便を設け、なんとか通夜・葬儀ともホール、という「パック商品」に持ち込むのである。
 葬儀まで市場原理だけに任せた当然の帰結だろう。
 小泉元総理のやり方は、病院や福祉施設、または幼児教育の現場まで完全な競争原理のなかに放り出したわけだが、当然ながら葬儀業者もそのなかで生き残りを競い合ってきた。
 その結果、ここでもさまざまな「仕分け」が行われ、「人情」では生き残れない、とばかり、まさにコンビニエントな「パック」を売る業者ばかりが大きくなってきたのである。
 直葬とか家族葬などが、自然発生してこれほど増えたのではない。
 業者がどこまでも商売のため、メニューに入れるから増えるのである。 
 じつは、「そのような葬儀なら要らない」という声が根底にあり、そこに、そのような葬儀しか知らない人が付和雷同し、「お葬式は要らない」という声になっていったのではないか。
 人間としての「想う」能力が、そこまで、いや、底まで下落したとしかいいようがない。

 何をいわれようと仕分ける側に廻ってはなるまい

 それにしても、今我々は、すべてが市場原理で「仕分け」される世の中の、底知れぬ穴の縁に立たされているのだと思う。
 世間の風は、お前ら僧侶だって同じ原理に随ったらどうかと、穴のほうに向けて強く吹いてくる。
 むしろ落ちてしまえばラクなのかもしれない。
 しかしその時こそ、僧侶という存在が、世の中から不要になるときだ。籠絡されたら最後、「僧侶も要らない」と言われる時なのだ。
 今の世の中における僧侶の存在価値は、「仕分け」で生き残るのではなく、あらゆる「仕分け」を否定して生きることではないか。
 どのような基準であれ、それを一律なものとして公言した途端、一定の人々を仕分け、排除することになる。
 やはりお布施に基準は設けられない。だからこそお布施なのである。
 個人的に頂戴するわけではないのだから、多く出したいという人からは、多くいただけばいい。それによってこそ「あんた、今は無理しなくていいよ」と、苦しい人には言えるのだ。
 個別を見つめ、そこに寄り添うことで、そうした裁量は生まれてくる。個別だけをじっと見つめ、その「時間」による変化を見つめ、感謝のうちに純粋な贈与としての法施と財施を贈与しあう。それが僧侶という生き方ではないか。
 要らない要らないといわれ、仕分けられそうになったからといって、我々はけっして仕分ける側に廻ってはなるまい。
 我々にとっては、仕分けようとする経済原理より、十重禁戒のなかの不説四衆過罪戒や不自讃毀他戒のほうがはるかに重要なのだから。
 もとよりムキになって反論すべきことでもないし、反論してどうなるものでもない。
 議論は評論家に任せ、我々は粛々と目の前の人に刺さった矢を抜きつづけるしかあるまい。


 
「寺門興隆」 2011年1月号