このところ、相撲界の八百長をめぐる報道がやけに眼につく。国技においてあるまじきこと、という見解にとりたてて異論はないが、批判する側が妙に子供じみて見えるのはどうしたことだろう。
 懲悪的すぎる雰囲気のせいもあるが、たぶんそれは「八百長」という言葉のせいだ。ふと、そう思った。
 もともと「八百長」とは八百屋の長兵衛さんに由来する言葉で、非常に碁がうまかった長兵衛さんの処に、囲碁好きの相撲の年寄、伊勢海五太夫親方がしょっちゅう挑戦に来ていたらしい。実力は長兵衛さんがかなり上なのだが、長兵衛さんは親方の人柄を気に入っていたのだろう、毎回一勝一敗に持ち込み、親方は次回こそ二勝をと意気込み、いつも八百屋を訪ねては楽しい時を過ごしていたようだ。
 これは実力を伴い、しかも相手への思いがなければできないことだ。露見した後も「さすが八百長さん」という気分が人々に漂い、だからこそ「八百長」という立派な言葉が独り立ちしたのである。
 立派な言葉と申し上げたのは、単純に字面からの印象である。日本人がこの文字の並びを見れば、たとえば「八百長に長じてこそ」と読むこともできる。けっして悪い意味とは思えない字面なのだ。
 辞書によっては、八百長さんの行ないそのものを「商売上の打算」だとするものもある(講談社『暮らしのことば語源辞典』)。しかしそれは筆者の憶測だろう。少なくとも「八百長」の名は、とてもちゃんこ鍋の材料費にこだわる小器には見えない。「次郎長」同様、名前だけで充分立派なイメージだし、もしも打算だけの行為なら「八百長」ではなく業界用語の「注射」を使えばいい。注射は誰でも嫌なものだ。
 むろん、今回のことは言葉の問題ではない、どう表現されようと真剣勝負にそのようなウソは許されない、という人々もいるだろう。そう思えば、きっと同じ文字も「嘘八百」の八百と見えるに違いない。
 しかし正直であることが常に真剣さにおいてウソに勝てるとは限らない。いや、人はむしろ、真剣につき通されたウソに救われることもあるのではないか。たとえばそれは、癌であることを本人に隠していた時代のほうが、周囲も本人の気持ちを逐一真剣に慮っていたことからも推測できるはずである。ウソがないほうが医師も周囲もラクではあるが、本人の気持ちは別問題、要は人の気持ちが事の中心ではなくなってきたということだ。
 誤解していただきたくないのだが、私はべつに、今回携帯電話の記録から発覚した事の詳細を肯定しているわけではない。ただ、ガチンコ(真剣勝負)や注射(いかさま)という言葉が昔からあるなかで、あまりに青筋立てて力みすぎではないかと申し上げたいのだ。
 考えてみれば、小説を書くことは八百長に似ている。
 ある程度のストーリーは事前に考え(打ち合わせはしないが)、現場の状況次第で変更も加えながら、しかもラストはリアリティーのある感動的な時空に人々を運びたい……。そっくりではないか。
 見ていて、読んでいて、「絵空事」「いかさま」と思える小説や取組を弁護しようというのではない。そうではなく、あらゆる物事についてまわるフィクション性と、そこに「誠」を捧げる行為としての相撲や小説のことを申し上げたいのである。
 きっと、相撲は小説ではなくノンフィクションに喩えるべきであり、対戦相手と食事しながら打ち合わせるプロレスこそがフィクションなのだと思う方が多いのだろう。当然そこでは、ノンフィクションはガチンコの真実なのだと無邪気に信じられているに違いない。
 しかし人間の眼と思考を通す以上、あらゆる文章はフィクションだし、すでにして相撲は、神さまの前で廻し一つになり、対等な立場でぶつかり合い、その「誠」を奉納するという物語の上に成立している。昔から、「真剣勝負」が厳粛に演じられてきたと見るべきだろう。
 相撲も芸能である以上、神も客も「真剣」を楽しんでいる。プロレスの名勝負もそうだが、じつはフィクションに込められる厳粛な「誠」を素っ裸で披瀝する、大人の文化なのではないか。
 伊勢海親方をやきもきどきどきさせつづけたような、見事な八百長と言われる小説をいつか書いてみたいものだ。 

 
     
「すばる」2011年4月号