この国には昔から、地震や津波さらには噴火が多かった。いや、噴火するような大地の環境だから、地震が起き、津波を招くのである。益田勝美氏はその著『火山列島の思想』(ちくま文庫)のなかで、日本の固有神としての「オオナムチ(大穴牟遅)の神」を取り上げ、それが本来は「オオアナモチ(大穴持ち)」であり、じつは火山の噴火口のことなのだと看破しておられる。
 噴火にはなすすべもない。昔からただ怯え畏れ、祀るしかない存在だったであろうことは想像に難くない。二〇〇〇年に噴火した三宅島の雄山も、五年後に避難指示は解除されたものの、人口の約四割は島に戻っていない。西暦千年以降だけで十五回も噴火しているのだから無理もないのかもしれない。
 歴史的には、熊本県の阿蘇、鳥取県の大山、そして富士山の噴火が大きな脅威であった。「オオナムチの神」はそのうち阿蘇と大山に現れ、その後の国づくりを主導し、それから出雲に入って大国主命(おおくにぬしのみこと)と名前を変える。八百万の神々にはよくあることだ。
 日本の神々は、スナノオなどもそうだが、まずは怯えの対象であり。それを宥めるために祀られることが多い。海神(わだつみ)船魂(ふなだま)塩竃(しおがま)五十鈴(いすず)など、東北地方の東岸に祀られている神々もみな同様である。仙台市若林区の「浪分(なみわけ)」神社などは、貞観十一(八六九)年の巨大地震による津波が、そこまで来たというランドマークとして建立されたとも云われる。神社はいわば怯えの器なのかもしれない。
 慶長年間にもこの地方には、伊達藩だけで五千人を超える死者を出した津波が記録されている。浪分神社が貞観と慶長のいずれの津波に由来するのか、歴史学的な確証はないのだが、大切なのはそんなことではなく、ともかく古人がそのような形で我々に警告を発し、神として祀るほどの恐ろしさを伝えていたことだろう。浪がそこまで来た、という脅威を、我々はすっかり忘れていたのではないか。
 聞くところによれば、ここしばらくは太平洋プレートの動きが活発になり、遅くとも二十年ほどの間に、南海、東南海地震が起こり、さらには富士山の噴火も確実だという。富士山の噴火は三百年ほどの間隔で起こっているらしく、前回の宝永四(一七〇七)年からすでに三百四年が経っている。ちなみに富士山の三大噴火と云われる他の二回は、共に平安時代の延暦年間と貞観年間である。いずれのときも、大地震に連動するように噴火が起こっていることを忘れてはいけないだろう。

 そのような不安定な国土に住みながら、我々の先祖たちは神への信仰という形で自然への怯えや畏敬を保ち、さらには仏教の無常観を徹底させてきたように思う。「諸行無常」は釈尊の三法印の筆頭なのだし、むろんインドから連綿と伝わってきた教えである。しかし「無常」が日本ほど強調された仏教も珍しいのではないだろうか。
「無常」はすでに平安時代、「あはれ」という感情表現として文学にも結実し、無常であるがゆえの「面影」は、その後の日本文化の基調にもなっていく。そう見ることも可能ではないだろうか。お彼岸という「いのち」を見つめる好機に、この無常なる世界での生き方について考えてみたいのである。

『古事記』では、イザナミの神が「火の神」を産んで死んだと伝えている。火はそれほどに手強く、神にも扱いかねる存在だったわけだが、我々の先祖はやがてそれを上手に使いこなすようになり、大切に祀りながら生活に利用するようになっていった。恐ろしいものでありながら恵みでもある。それは海も火山も同じことだ。無常であるがゆえに、時には恐ろしくとも、恵みも期待する。そこに、火山列島に住む人々の基本的な心根があったのだろう。
 そうして鎌倉時代になると、ついに鴨長明が『方丈記』を書く。この本が日本人の無常観の基底を形作ったのは間違いないだろう。そこには火事や辻風、飢餓や遷都などのほか、地震についての記述もある。
「そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地(くがち)をひたせり。土裂けて水涌き出で、巌割れて谷にまろび入る」「堂舎塔廟、一つとして全からず」「塵灰たちのぼりて、盛りなる煙の如し」「地の動き、家のやぶるる音、(いかづち)にことならず」。
 じつに簡潔な名文に、静かな恐怖が湧き起こってくる。そして鴨長明は、「恐れの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか」と書き、最も恐ろしいのが地震だし、その後の余震も三月ばかり続いたと報告している。
 そのような思うに任せぬ世の中で生きるため、鴨長明が主張したのはじつにシンプルなことだ。とにかく災害の多いこの国にあっては、「人と栖と」が「久しくとどまりたるためしなし」なのだから、どこまでも「仮の庵」で「仮住まい」すべきだというのである。寄居(ヤドカリ)に喩え、家は小さくて移動自在ならば被害も少ないとも述べている。
 実際、鴨長明の住まいは、鴨神社の宮司の息子としての幼年時代に比べると、どんどんどんどん小さくなっていく。最後に日野に結んだ庵がまさに「方丈」で、それは移動式で組み立て式だったようなのである。
 身の周りの品々も、当然のことだが必要最低限になっていく。しかしその最低限の品物のなかに。阿弥陀・普賢の絵像、歌書、音楽の本、『往生要集』があり、琴や琵琶が置いてあるのも豊かなことだ。
 長明は無常なる世を知ればこそ、「願わず、わしらず(走り回らず)、ただしづかなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす」る。また「仮の庵のみ、のどけくしておそれなし」と言い切るのである。
 ここには、無常なる世のあり方に、どこまでも随順して生きようという思想がある。神道と仏道と、双つながら親しんだ鴨長明のこの思想こそ、おそらくは日本人の心の基層深くまで滲み込んでいる考え方ではないだろうか。

 脅威と恵みと、二律背反であるからこそ、日本には自然を神と祀る信仰が生まれ、また仏教の無常観もとりわけ深められた。火山の火や海の脅威が、我々の心を育んでくれたのである。
 しかし現代になると、「消えない火」が現れた。それはたしかに脅威と恵みの両方を与えるのだが、どうも何かがこの国に合わない。これまで述べたこの国の姿にうまく嵌らないのだ。原発事故が起こり、我々の多くはその実態をようやく知ることになったわけだが、まず私は無事に核燃料を水流で冷却したとしても、無事冷却できるまでに七、八年かかるという事実に驚いた。しかも爆発によって撒き散らされた放射性セシウム一三七は、半減期が三十年。プルトニウム二三九など二万四千年である。これはつまり、「無常」ではないということなのだ。
 神道の基盤である大自然を穢した「消えない火」は、無常を説く仏教にとっても到底認められない。今、我々は、日本古来の文化を守るか、原発を続けるか、というギリギリの選択を迫られているのだろう。
 どだい火山列島の国に、消えない火があったら危なくて住めないではないか。火は火山だけで充分であり、そちらの火ならばじつは心底で覚悟もしている。しかし消えない無常ならざる火は、誰も覚悟していないから恐ろしい。「あはれ」なる命に、もとより扱える代物ではないのである。
 
 
     
 
「法光」秋彼岸号 平成23年 No.248