お盆になると、「三界萬霊(さんがいばんれい)」あるいは「有縁無縁(うえんむえん)」などという言葉をよく目にされることと思う。
 三界とは、人間の心性(しんしよう)による欲界、(しき)界、無色界という三つの世界。人は誰でもこの三界のどれかに住むという認識から、「三界萬霊」とは命ある全ての存在を意味する。また「有縁無縁」とは、それら全ての命が、たとえ直接的にふれあわなくともじつはしっかり繋がっているという認識を示した言葉である。
 歴史的にも空間的にも、我々は果てしないネットワークのなかで三界を流転しながら生きている、と言ってもいいだろう。
 考えればすぐ分かることだが、二人の両親にはそれぞれ二人ずつの両親がいる。四人の祖父母には八人の曾祖父母が必ずいる。しかし八人の曾祖父母を全部知っている人がいるだろうか。血は同じように八分の一ずつもらいながら、家の仏壇やお墓で祀られているのはせいぜい二人だけ。ほかの六人はいったいどこに埋葬されているのかも分からない。それが普通である。
 家を中心に先祖を考えると、どうしてもどこかに源があり、そこから枝分かれして家系図のように扇形に広がっていると考えてしまう。しかし血というものが「私」に到るまでを想えば、すぐに逆さまの扇形が浮かぶはずである。十代遡ればその扇の裾野には千二十四人もの直系の先祖が並ぶことになる。
 一代を三十年と考えると、十代前なら十八世紀の初め、享保年間に当たる。当時、将軍吉宗公によって初めての本格的な人口調査が行なわれたのだが、それによれば当時の日本人は約三千万人だったらしい。
 なんだか計算が合わない。今の一億人の先祖が当時千二十四人ずついたのは間違いないのだから、当時の日本には千二十四億人いてもいいはずではないか。どうして三千万人しかいないのか……。
 八人の曾祖父母にも間違いなく二人ずつ親はいたのだし、いったいどこで計算が合わなくなってしまうのだろう……。
 「私」にとっての先祖は間違いなく千二十四人おり、「あなた」の先祖もたしかに同じだけいるのだが、つまりこれは、同じ人物が両方に数えられているということだ。今の日本人全体で考えること、なかには百人以上同じ人が数えられている、という人々もきっと無数にいることだろう。
 つまり我々は、意識はしていないが、ほとんど皆親戚なのである。縁がないと思っている人々さえも、じつは全てが有縁なのである。
 思えばお盆というのもじつに不思議な儀式ではないか。
 餓鬼道地獄に堕ちた目蓮尊者の母親を救うのに、どうして修行僧たちに供養するのか。それでは坊主丸儲けだと思う人だっているかもしれない。
 しかしそれは、誰かを救いたければ繋がりの全体に供養しようということだ。ネットワークそのものに供養する物や心を差し上げ、その平等な分配によって無縁だと思い込んでいる人々にも供養が届くようにと配慮される。その際に、ネットワークそのものを確実に体現しているのが僧侶だと考えられたのである。
 もともと中国で考え出された施餓鬼は、洪水で亡くなった多くの人々を供養するために始められた。洪水を防ぐための灌漑事業は、歴代皇帝たちの重要な仕事だった。それでも追いつかずに死んでいく無数の人々を、供養する形態が「施餓鬼」として考案されたのである。
 今年、三月十一日に起こった東日本大震災で、私は痛切にこの「施餓鬼」の「有縁無縁」という言葉を思い起こした。
 巨大地震と津波、その後の火災などでも、じつに夥しい死者を出した。圧死、溺死、焼死のご遺体は、場所によっては身元確認も叶わぬままに並べて土葬され、また津波に掠われて発見できないご遺体も無数にあった。
 私も郡山の火葬場で、身元確認ができないご遺体にお経をあげたのだが、そこには布を被って識別不能なお顔の写真と、泥水で薄茶色に染まった下着の写真が貼り付けてあった。
 本当にこれじゃ誰だか分からない。DNA鑑定などという声も聞かれたが、実際にそんな識別をすることは不可能だろう。
 毎日そういうご遺体が南相馬市や相馬から運ばれてくる。宮城県や岩手県では土葬も多かったけれど、福島県ではなんとか無事だった火葬場まで連日運んで火葬にした。ただその埋葬は、身元確認ができない以上、先祖のお墓にというわけにもいかないのである。
 天災で奪われた大勢の人々の命が、無数の珠のように煌めきながら繋がって見える。むろん先祖を遡れば親戚だらけなのだろうが、そういうことを思わずとも、この全ての被災者は夜空の星のようにひとまとまりの星座になっている気がした。すべてに同じように供養したいという気持ちが、私の中にも深く強く芽生えてきたのである。
 現地には大勢のボランティアの人々が駆けつけてくださった。医師や看護師、消防士や介護士ばかりでなく、救援の品々を携えた無数の人々が無償の行為を次々に捧げてくださった。この地上にも、無数の星が連なりながら煌めいていたのである。
 無名氏たちのネットワークから無名氏たちのネットワークに、無数の供養が捧げられた日々は、本当にありがたかった。
 しかし我々は、その気持ちでもう一度儀式が行われることを求めている。身元確認もできず、場合によっては棺にも入れられず、儀式も行われないままに自然によって奪われた多くの御霊に対し、人間としての尊厳ある葬送の儀式を行ないたいのである。
 東松島で、僧侶もおらず、自衛隊の敬礼で見送られた二十一人の埋葬に立ち会った人が言った。自衛隊のあの一糸乱れぬ儀式的な動きに、本当に救われたと……。そう、我々は、長年かけて作り上げてきた文化的な環境のなかで、あらためて人間としての儀式によって彼らが送り出されることを、無意識に求めているのである。
 読経のたびに我々僧侶は誓願を新たにする。これだけ多くの人々が亡くなったのだから、我々はもっと大きな誓願を持っていいと、そう思いつつ社会の大きな変化に多少でも寄与しようと誓うのである。
 この夏、我々は、阪神淡路大震災のときに感じた施餓鬼の心を、さらに深めながら有縁無縁の人々に供養することだろう。誰かにではなくみんなに、という盂蘭盆会の本質を、誰に教わるともなく合点するはずである。
 人はみな繋がっている。世界は大きく緊密に関係しあったネットワークである。
 できることならその全体への供養の一つとして、あなたの生活上の節電への誓いを加えていただけたら嬉しい。
 福島第一原子力発電所の事故は、多くの人々の故郷を奪い、先祖から受け継いだ文化的環境に生きる権利まで剥奪した。家も、お墓も、山野も、畑も、動物たちもである。
 天災に奪われた命はお盆に弔い慰め、荒々しい大自然の一部に戻ったものとして祀ることもできる。有縁無縁として全てを供養する儀式さえ、我々は持っている。
 しかし我々は、たぶん人為的に奪われた無数の人生を、哀しく今も生きている人々に投げかける言葉を、残念ながら知らない。だからあのような施設を増やさないためには、小さな節電をお願いするしかないのである。
 大丈夫。人の心は暖房より温かいし、きっと冷房よりも涼しい。そんなことを感じる今年のお盆であってほしい。 
 
     
 
「法光」うらぼん号 平成23年 No.247