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   の行脚の詳細はわかっていないが、故郷の美濃に戻ったこと、そして天明七(一七八七)年、三十八歳のとき京都に居たことはわかっている。滋賀県長浜市の安楽寺には「書蹟屏風(しよせきびようぶ)」と呼ばれる雄渾(ゆうこん)な書が残っているが、これはおそらくその間の足跡だろう。東北から越後にまわり、そこから美濃、鎌倉、横浜、そして東海道で滋賀を通り、とうとう上洛(じようらく)、というのが私の現在の推測である。
 美濃への思いは、得度の師でも空印円虚への思いでもある。住寺として入ることは叶わなかったものの、幼い頃に薫陶を受けた学徳高き師匠は天明七年八月までは存命であった。
 二人の再会を伝える具体的な話は残っていないが、は相当複雑な心境で美濃を訪れたのではないだろうか。いろんな話が入り乱れて伝わるが、美濃に来たは「無門庵」という庵に住み、乞食や浮浪者など、無頼な人々も受け入れて暮らしていたらしい。一説にはその庵を藩の役人が来て取り壊したから、とも云うのだが、とにかく時の家老と美濃そのものへの決別の()れ歌を書き残し、は美濃を去る。
「よかろうと思ふ家老が悪かろう、もとの家老がやはりよかろう」
「から傘を広げてみれば天が下、たとえ降るとも蓑(美濃)はたのまじ」
 しかし一方では、天明七年八月七日の空印円虚の遷化(せんげ)を知らされ、自殺を図ったとも云われる。むろん失敗し、陽の光を見て大悟したとも云われるのだが、いわば全てを失って全てを得たということかもしれない。故郷への妄執からの解放、それはこの絵に描かれた釈尊の大悟の出発点でもあった。
 むろん、このときのはまだこの絵のように穏やかな心境ではあるまい。自虐的なまでに飢饉の只中(ただなか)を目指した行脚。そして故郷美濃での役人を刺激するような暮らし。そこにはまだまだ後年の円通自在なの境涯は感じられない。
 『荘子』の「和して唱えず」の思想もまだ了解されてはいない。『維摩経』仏道品には「我見も須弥山(しゆみせん)のように大きいものほど、よく無上の菩提心を起こすことができる」とあるが、まさにこのときのがそうだろう。天明七年十月には鎌倉円覚寺に先輩である誠拙周樗(せいせつしゆうちよ)を訪ねる。そこでおそらくは、この上ない祝福を受けたのである。  

 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月7日