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   話は遡るが、文化八(一八一一)年九月、が六十二歳で藩庁に提出した自らの退隠願には、後任の住職である湛元等夷(たんげんとうい)のことが、「道學兼備寺柄相應二付」と推薦されている。公式文書ならそのくらいの美辞麗句は(つら)ねるだろうが、とにかくは湛元の学問への情熱に惚れ込み、信州慈雲寺にわざわざ書簡を出して招き寄せたのである。
 しかし学問への情熱と、女遊びへの情熱が、たまに両立するような人がいるものだ。思えば経典翻訳で知られる鳩魔羅什などの、存分に美女たちを抱きながら学問への情熱を保ちつづけた。湛元の場合にはどの程度両立できたのか知らないが、夜な夜な色町に出かけるのをは困り顔で眺めていたようである。
 有名な話だが、ある晩は、いつも湛元がそこを越えて出入りする塀の下で坐禅を組んでいたらしい。夜中に戻ってきた湛元はいつもように塀を乗り越えて足を下ろした。位置も感触も違うが,湛元はそのまま寮舎へと走り去った。翌朝、が怪我をしたという騒ぎに驚いて相見(しようけん)してみると、頭が腫れ上がってくっきり下駄の跡があった。心配する雲水たちには「小用に起きて足を踏み外した」と笑い、湛元のことには一言も触れなかった。その慈非に深く感じ入った湛元は、その後ピタリと酒色を断ったというのである。
 ともあれは、その後妙心寺でも修行して戻った湛元に、聖福寺住持を任せて虚白院に閑栖する。二十三年間は自由んま立場で絵筆を(ふる)い、交友する人々の広がりがそのまま画材の広がりにもなっていく。
 これは晩年に描かれた「南泉斬猫図(なんせんざんみようず)」だが、弟子についてのの境涯の一端が感じられて面白い。一番弟子の趙州(じようしゆう)の留守中、王老師こと南泉普願(なんせんふがん)は、迷い猫をめぐって言い争う弟子たちを前に「なにか言ってみよ。言えなかったらこの猫、殺すぞ」と脅し、誰も何も答えられなかったので殺してしまう。戻ってきた趙洲に子細を話すと、趙洲は脱いだ草履を頭に載せて出て行ってしまう。南泉は「お前がいればあの猫も救えたのに」と嘆くのだが……。の賛には「一斬一切斬」の対象に、東西の首座だけでなく王老師も含められている。なのもそんな手荒なマネをせずとも……。はそう言いたいのだろう。しかし手荒に育てなかった湛元等夷はやがて住職退任を命ぜられ、筑前大島に流罪となる。流罪になった湛元は、草履を頭に載せたか、どうか。 
 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月28日