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   江戸時代の禅の世界で最も大きな出来事は、おそらく隠元隆琦(いんげんりゆうき)の来朝であった。からすればすでに百年ちかくまえの出来事だったが、中国から弟子を二十人も引き連れてやってきた隠元は、宇治の万福寺(まんぷくじ)を中心に本格的な道場運営のモデルを示した。応仁の乱以後廃れていた多くの禅寺は、それに刺激を受けて次弟に復興していくのである。
 扶桑最初禅窟の住持たるには、鎌倉時代に中国から入り、その後大いに日本化した禅が、隠元禅との比較からよく見えたことだろう。は、長い年月に国風化した日本の禅を支持した。だからこそ最初に禅を伝えた栄西禅師を「千光(せんこう)祖師」と呼び、唯一「祖師」と呼んで敬愛したのだろう。
 またが「渡唐天神図」をよく描いたことも国風支持を証拠立てている。渡唐天神とは、一四〇〇年頃に五山僧によって創作された物語らしいが、要するに天神さまこと菅原道真公が、夢の中で径山(きんざん)無準(ぶじゆん)禅師に参じ、一夜にして印可(いんか)を得て梅一枝を持ち帰ったというのである。ご近所である北野天満宮への配慮が些かはあるにしても、基本的にはこの物語は、唐風(からふう)に対する国風の優位を示す。今さら中国禅に学ぶのではなく、日本禅の初心である千光祖師に(かえ)ることこそを重視したのである。古水墨を大成したとされる雪舟が中国天童山で第一座になったことを誇り、生涯「天童第一座(てんごうだいいちざ)」と署名したのとは隔世の感がある。にとっては、自分の今いる扶桑最初禅窟こそ日本禅の初心だという矜持(きようじ)があったのである。
 同じようなスタンスで禅の日本化を推進していたのが東海の白隠慧鶴(はくいんえかく)だが、この鶴を「慧鶴」と読むのは深読みしすぎだろう。
 鶴は日本の鳥。国鳥という取り決めはなかったにしても、当時は渡り鳥としてあちこちで見られ、愛された鳥である。
 賛には「鶴ハ千年、亀ハ万年、我れハ天年」とある。ここは禅も中国も一切ないように思える。しかし意地悪な指摘をすれば、「天年」とは『荘子』に「天年を終える」として出てくる言葉だ。しかしすべてが一体になって日本という国柄に溶け込んでいる。それがの見た「あらまほしき」日本ではなかっただろうか。ちなみに白隠は、月船(げつせん)(もと)に入門した年(明和五=一七六八年)の暮れに亡くなっている。会うことはなかったが、知っていたことは間違いない。
 
 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月15日