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   いま試みに、が四十歳で聖福寺に住持してからの仕事を辿ってみると、じつに忙しかっただろうと思う。寺の法要もきちんと営み、記録し、さらには普請も着々と進めていったとうだ。
 私にも経験のあることだが、檀家さんに寄付を募るには何度もあちこちに足を運ばなくてはならず。しかもそれによって檀家さんとも急に親しくなる。が住職着任三年めの寛政三(一七九)年に寄付を募り、唐門の(あし)()き替えたのは画期的である。先代の盤谷和尚が遷化するのは翌年だから、このときはまだ先代の威光があったにしても、多くの個人的な支持者にも出会うことになったはずである。
 ほかにも寛政六年には大破した伽藍の修復という名目で、藩庁に銀二百貫目の拝領を願いでる。
 法要として大きいのは、四十九歳の寛政十年、一月に厳修(げんしゆう)された開基源頼朝公の六百年遠諱だが、はそのためにも前年に黒田公ご寄付の「頼朝公画像」の修復願を藩庁に提出する。
 美濃に居たときには考えられないような藩庁とのつきあいのようだが、当然である。聖福寺の住職になったからにはなったなりの生き方になる。胡蝶の夢ではないが、過去は夢として、今の志に没頭するしかない。そこには何のこだわりもなかった。  
 遠出したのは入山翌年の京都入り。これは本山妙心寺で正式に住職資格を得る垂示式のためで、帰山まで三カ月ほど要した。またその翌年には得度した美濃清泰寺での開山二百年遠諱に出頭している。
 美濃での鬱屈(うつくつ)した心情をつい憶いだしてしまうが、むしろ逆だろう。故郷に錦を飾るというと変だが、このときのの心境はむしろそれに近い晴れやかなものであったと思える。三宅酒壺洞(しゆこどう)氏の説によれば、美濃の父親は天明八年に亡くなっているが、母は存命であった。
 ともあれ、このように住職や師家としての仕事が忙しく、はこの時期、さほど多く作品は描いていないようだ。
 以前示した「香厳撃竹図」とここに載せた布袋図が四十八歳の作とされる。たしかに晩年の漫画チェックな布袋とはずいぶん違うが、ここで大事なのは禅機画ばかり描いてきたが次に画材として布袋を選んだことである。布袋も臨済僧だが、街に分け入り衆生を済度する象徴である。長年の行脚で、の心はブレなく定まっていたのだろう。

 
東京新聞夕刊・中日新聞夕刊/文化面 2010年9月11日