「吾れ唯だ足るを知る」玄侑宗久

 知足(ちそく)(つくば)というのが京都の龍安寺(りゆうあんじ)にあるのだが、ご存じだろうか。水戸光圀公が寄進したもので、丸い石の中央に小さな「口」が彫られ、その四方を囲むように「五」や「矢」などが施され、真ん中の「口」と合わせて「吾れ唯だ足るを知る」と読ませる。ご覧になったことのある人も多いのではないだろうか。龍安寺だけでなく、最今ではあちこちに同型のものが設置されている。
 じつは私の寺ではその蹲いを真似て、「足るを知るクッキー」というのを去年から作っている。女房が友人たちに頼み、金型を作り直径十センチほどのクッキーを製造してもらい、お盆やお彼岸にお出でになった檀家さんなどに差し上げているのである。
 折しもお彼岸のクッキーの準備ができた頃、私は大阪の
北御堂(きたみどう)という大きなお寺さんでの座談会に招かれた。お相手は文化人類学者の上田紀行氏と浄土真宗を枠を超えて活躍中の釈徹宗氏。しかもそのテーマがこれまた「少欲知足」だった。おお、いよいよ「足るを知る時代」の到来かと、私は感慨を深くしたのである。
 少欲知足とは、『雑阿含経』など古い仏典に出てくるようだが、むろん翻訳に当たっては『老子』の「知足」が使われたのだと思う。同書には「無欲」や「寡欲」も勧められている。
 『老子』には仏典に通じる第三十三章の「足るを知る者は富む」のほかに、第四十四章には名誉や財産を求めて身を持ち崩す人間存在への警告として、「足るを知れば
(はずかし)められず」と出てくる。また第四十六章には農民の立場からの反戦・非戦の言葉のなかに、「(わざわ)いは足るを知らざるより大なるは()し」と述べられるのである。
 思えば二十一世紀になってからも、我々人間たちは名誉と財産を求める欲望に振り回され、殆んどバーチャルな状態にまで自己の輪郭を拡大してきた。足るを知らざる石油などへの欲望はむろん戦争も辞さなかった。拡大しつづける者を援護するための理屈が、グローバル・スタンダードという言葉だったのである。
 広がりすぎれば中は空疎化するのが道理。それが今の金融危機を招いているのではないだろうか。
 「足るを知る時代」を本当に到来させるためには、まず廉いものを外国で買ってくればいい、という考え方を捨てるべきだろう。アメリカの尻馬に乗った日本は、自らの持てる国内技術をぶちこわしても、とにかく廉い食料、衣料品、果ては仏像から墓石まで外国から輸入しまくっている。名前は出さないが、ある大手商社などは、日本人の食べる野菜をまとめて中東の人々に作らせるというプロジェクトを進行中である。そうしたやり方が招いたことは、農業の疲弊、小規模商店の閉鎖、毒入り食品の横行、そして何より伝統技術の衰退だろう。
 なにも鎖国を勧めているわけじゃない。だいたい知足の蹲いを作らせた光圀公自身、日本で初めてオランダ製の靴下つまりメリヤス足袋を穿き、ワインを愛飲し、二人の黒人家臣までもったとされる。
 そんな進取ぶりを否定したいのではなく、要はスタンダードなんてものを鵜呑みにして拡大ばかりしてたらアホ見まっせと申し上げたいのだ。
 ちなみに黄門さまは五代将軍が出した「生類憐れみの令」の悪法性を見抜き、野犬五十頭を捕まえてその皮を献上したと云われる。「知足」の実践には相当の気概が要りそうだ。
 ともあれまずは権威におもねらず、我が身に即した反骨の一歩を踏みだそう。これからは縮小する勇気が問われる時代である。

中日新聞/文化面(12面)2009年3月22日