「恥なき藪の中へ」玄侑宗久
 今年イスラエルの文学賞エルサレム賞を受賞した村上春樹氏は、記念講演のなかで権力と民衆を「壁」と「卵」に喩えた。文学は常に「卵」の立場からの表現なのだという、明確な主張であったと思う。
 こうした立場による最も大きな違いは、「壁」側は客観的事実というものが唯一あると信じていることだろう。だからこそ国の法に照らし、その「事実」を裁こうとする。
 しかし「事実」はあくまでも人間の感受性によって認識され、記憶によって再生されるものである以上、それが唯一であることはあり得ない。これは文学を持ちだすまでもなく、今や脳科学の常識だろう。
 たとえば百姓一揆のリーダーなど、「壁」側にすれば不埒な悪人だから打ち首にするわけだが、百姓たちにすれば義勇に富んだ英雄的存在に違いない。日頃も優しく親思いな息子であった可能性が高い。つまり裁く側に見えている若者と、民衆に見えていた青年像は、細部に亘るまでまったく別人なのである。
 見方が違えばディテールもこんなに違ってくる、「卵」側に立てばこんな情報も有効になる、というのが、おそらく文学的筆の起こる一つの土壌ではないだろうか。
 じつは宗教のもつ「アジール」(治外法権)の権限も、そのような配慮から生まれた。つまり「壁」の裁きも人間が行なう以上、常に過ちの可能性を含む。また今の常識もすぐに色褪せることだってある。だからこそ、刑の執行を留保するための「逃れの街」や「御免町」を、キリスト教会や多くの寺社には認めたのである。むろん文学と違い、宗教はその時代、もう一つの権力という側面をもったわけだが、少なくともアジールを認めた「壁」側に、僅かでも権力の一本化をためらう意識があったことは確かだろう。それを全廃しようとした初めての日本人が織田信長である。
 たとえば刑に服したあとの更生も、そのような多視点が前提されていて初めて叶う。「壁」側の判断はああだったけれど、俺たちにはまた別な判断があるよ、少しは味方もいるよ、という社会の複層性こそが、彼らが真に更生していく場を提供するのである。
 思えば森鴎外の「高瀬舟」も、今で云えば自殺幇助で島流しになっていく喜助に、安楽死という新たな視点から「壁」とは違った見方を提出し、ある種の救済を投げかける物語だった。また芥川龍之介の「藪の中」ほど、「事実」の曖昧さを鮮烈に描いた物語もないだろう。文学にとっての「事実」とは、あくまでも「藪の中」のように、個別な人生の織り地に浮かび上がる絵模様よろしく、個々の人生模様の全体に適合する形にすでに変形し、編集されたものにすぎない。べつに卑下するわけではなく、それしか人間にはできないのだという認識が、文学に携わる以上きっとあるはずだと思う。

 今回五月二十一日から始まった裁判員による裁判では、「壁」と「卵」が一堂に会し、多数決で一つの結論を導くことが要請されている。それは文学や宗教の窒息状態だけでなく、社会の豊かな複層性を自ら放棄することでもある。
 問題点は無数にある制度だが、ここでは幾らかでも文学寄りに、裁判員が判断を下すための情報という側面からまず考えてみたい。
 アメリカの陪審員の場合はマスコミからの情報に左右されないように、陪審員になるとホテルに缶詰にされ、テレビの視聴や新聞の購読まで制限される。しかし日本の裁判員は、社会や家庭と往復しながら、彼らの経済生活に負担があまりかからないよう、そのような制約は一切設けられていない。
 最高裁の云う「あなたの感覚」「あなたの言葉」というのは、いったいどのようにして形作られるのだろう。
 テレビの街頭インタビューを見ていると、彼らがあまりにもマスコミの流した情報のままに答える姿に驚くが、むろんそこには恣意的な選択がある。一旦流した情報は、そうして選ばれた「民意」によって補強され、さらに強い情報に育つのである。
 しかしあなたは、たとえばサダム・フセインが小説家であったことをご存じだろうか。彼は恋愛小説を主に書き、なかには十八カ国語に訳されている作品もある。また彼は大統領時代、国民の医療費をすべて無料にした。これはおそらく日本人にはあまり知られていない「事実」ではないだろうか。なぜか。
 それはサダム・フセインを悪人に仕立てようというアメリカにとって、そんな情報は不要どころか邪魔だったからである。「壁」側の大いなる意志に沿った情報だけがマスコミに流される。「表現の自由」といっても、マスコミに再選択されない情報は微力しかもたない。そしてきっと、そのような情報から「あなたの言葉」は述べられるのである。
 また意識下への情報の暗示効果も無視できない。一九五七年、アメリカのニュージャージー州の映画館で行なわれた有名な実験だが、映画のフィルムの五秒間に一齣、よく冷えた飲料水とポップコーンの静止画像を挟み込んだ。その結果、それらの売り上げが飛躍的に伸びたと云われる。いわゆるサブリミナル効果と呼ばれるものだが、これらの静止画像は意識は拾い上げず、潜在意識だけに刷り込まれる。つまり、あれを見たからとか、聞いたからと本人が意識することなく、情報源を記憶していないからこそ「わたしの感覚」だと錯覚して買ってしまうのである。
 社会にはその手の情報が満ちている。それがいわゆる「時代の空気」というものだろう。
 サブリミナル・メッセージについては欧米ではすでに法律で禁止している。日本ではテレビ局各局の自主規制に任されている状況だが、たいていは編集したビデオを一齣ずつチェックする機械が置かれ、見つけ次第自動的に削除できる仕組みのようだ。それだけ危険を認識しているということだが、残念ながらそうしたメッセージは意図的に挟み込まれた画像だけではない。よく話す仲間との会話や、場合によっては最近視た映画とかテレビ番組でも、記憶の源は憶いだせないのに、いや、憶いだせないからこそ、そのような効果を果たすことがあるのである。
 そして感覚や言葉を織りなす決定的な条件には、そうした意識的な情報や意識下に刷り込まれた情報のほかに、なによりその個人の生活史がある。「藪の中」で語られる事実認識が人によってあれほど違うのも、基本的にはそれぞれの生活史から来る信条や生き方の違い、もっと云えばそれによる「思い込み」の違いのせいではないだろうか。
 夫婦の在り方についての考え方の違い、あるいは何を恥と考えるのか、どのような美意識をもっているのか、といった違いが、摂取する情報そのものを選別するだけでなく、場合によっては無意識に歪曲するのである。
 だからこそ人間は不思議だし面白いのだが、このような人間であれば「客観的な判断」など望むべくもない。人間の判断とは、あらゆる場面において主観的だし恣意的である。時には、鷲鼻の人はなんとなく嫌いとか、あの髪型が気に入らないなどという勝手な好みさえ無意識に判断の材料にする。嫌な感じと思えば必ずその証拠は探せるし、好ましいと思えばその証拠もきっと見つかる。人はおそらく、思い込みを証拠立てる形で「わたしの意見」を形成するのである。
 法曹関係者が「思い込み」から解放されているとは思わない。ただ彼らの思い込みは、日頃から遵法の精神に満ちているだろうから、少なくとも意識的には関係のない情報を排除できるに違いない。かなりの程度、法に基づいた判断ができるのではないか。そう信じることで日本の司法制度は成り立ってきたと云えるだろう。
 そのような彼らが原則非公開で行なう公判前整理手続きは、しかし「思い込み」を証拠立て、強靭な物語に仕立てるための密室である。そこでは裁判の短期化のためにも、サブリミナルは無しにしても、ビジュアル効果を狙った証拠が選ばれる可能性が高い。それを裁判員は「義務」として見せられる。そのショッキングさは裁判所側も想定しているのだろう。心理ケアまで考えているというのだから、こちらもPTSDまで覚悟しなくてはならないだろう。ところで少し考えれば分かることだが、心的外傷後の心理ケアのためのカウンセリングを、いったい裁判員は守秘義務を守りながらどうやって受けるのだろう。
 だからこそ写真や映像であっても、見たくないものは見ない権利があるはずなのに、そんな権利は裁判員という義務によってあっさり蹂躙される。
 しかもそうしてプロが選び抜き、鍛え上げた物語に、素人が「わたしの感覚」や「わたしの言葉」で対抗しなくてはならない。
「卵」の立場から言葉を紡ぐために、作家はあらゆる情報を渉猟し、常識を疑い、ときには意識下にも問いかけつつ孤独な作業を続ける。そのような背景があって初めて「卵」の言葉は成り立つのである。
 その日だけ会社を休み、テレビや新聞からの情報をもとに、生活史もばらばらで分からない人々が、いったいどうやってプロが組み立てた物語に対抗するのだろう。いや、そんな「裁き」には加わりたくない、自分にはそんな権利も、裁けるだけの生活史もない、そう感じるのは、「思想信条の自由」以前に、「恥の文化」の日本人としてまともな見識ではないだろうか。
 裁くためには裁く人ならではの生活史が必要ではないか。万引きもし、交通違反も何度かして、酔っぱらえば暴言も吐く。そんな人でも選抜され、それを断れないというなら、自らの「恥」の意識だけからでも、せめて裁きに参加しないことで人間としての矜持が保たれるのではないか。
 思えば芥川の「藪の中」は、男が殺された一事は変わらないのだが、捕まった盗賊の多襄丸は自分が殺したと云い、殺された男の妻はそれは自分だと云い、また殺された男自身の死霊は、あれは自害だと云うのである。
 誰が最後のひと突きをしたのか、それはおそらく一つしかない「事実」なのだろう。しかし人間の認識や記憶は、これまでも申し上げたように日常的な美意識や心がけ、さらには生活史からくる「思い込み」によって無数の「事実」をつくる。
 その「事実」の正誤を気軽に裁けると思うのは、自分だけはそうじゃないと思い込んだお気楽な恥知らずだけではないか。
 少なくとも芥川が描いた三つの「事実」は三人の異なった生活史と強烈な「恥」の意識に裏打ちされていた。「恥」や美意識から男は自害だと思い込み、妻は自分が殺したと云い、多襄丸も自分がやったと思い込んだのである。
「思い込み運転」が事故が招くことは道路交通上の常識だが、今なお年間五千人以上が交通事故死している。そんな民衆に「お裁き」を任せていいのですかと、あらためて司法に伺いたい。またそうまでして「壁」と「卵」との「唯一の答え」を導き、民衆の心の「アジール」を奪うのは何故なのか教えてほしい。
 今回の制度開始は民衆に「恥」を捨てて「裁く」ことを迫っている。芥川においては「恥」ゆえの「藪の中」だったが、これからは「恥なき藪の中」である。今からでも引き返したほうがよほど恥ずかしくないと思うが、如何? 

     
「文學界」2009年7月号