人と比較しないこと、
慢心しないこと、
嫌なことを忘れる
「呆け」という裏ワザも


仕事で抱え込んでしまう悩み。
その一つに、
職場での人間関係がある。
どうしたら相手を好きになれ、
のびやかな人付き合いができるのか。
禅の世界に答えを求めていく
 
「地獄」に行かないようまずは予防が大切
 ご依頼により、職場での人間関係の悩みへの処し方を、禅という生き方から考えてみたい。むろん人間関係というのは、職場に限ったものではない。だいたい、「人間」という表現そのものが、我々は間柄における存在なのだと主張しているのだから、これは人間の在り方そのものの問題でもある。
 仏教では、人間の心の在り方を「六道」に分けて考え、最悪の状態である地獄から、餓鬼、畜生、修羅、人間、天と六段階に規定するのだが、これだって考えてみればみな人間関係によって招く状態と云える。「人間」は「じんかん」と読み、世間に暮らす我々の普通の状態を意味するが、つまりは人間関係に悩んだり迷ったりしている今のあなたのことである。
 その関係がうまくいきさえすれば、「天」にも昇る気分になる。ただし関係というのは常に無常だから、あくまでも有頂「天」であって長続きはしない。またそのうち、慢心から「人間」に戻り、ヘタをすれば「修羅」も招く。開き直れば「畜生」にもなり、周囲が見えず我欲の(とりこ)になったままならそれが「餓鬼」である。いっそ死んでしまいたいとまで思いつめれば、そこが「地獄」ではないだろうか。
 そう聞けば、ます関係というのは変わるものだと、諒解できるはずである。そこにこそ、この原稿を書く意味もあるわけだが、ただ予め申し上げておきたいのは、いったん「地獄」まで行ってしまうと、容易なことでは上に昇ることができないということだ。
 地獄の底には「金輪際(こんりんざい)」という際があって、最後はそこで跳ね返って上昇しはじめることになってはいるのだが、この「金輪際」にどの程度の反発力があるのか私も詳しくは知らない。もしかすると、そのままズブズブと沈み込んでしまう可能性だって否定しきれない。だから私はまず、予防をお勧めしたいのである。
 すでに壊れた人間関係の修復がいかに難しいか、それは皆さんにも覚えがあるだろう。まずは関係が壊れないための基本的スタンスを考えたい。
他人と比較せず役に徹するのが基本
 人を仏道から遠ざけるものは、慢心と嫉妬だと、『法華経』「方便品」には書いてある。仏道とて、じつは良好な人間関係の上にしか成立しないのであり、慢心と嫉妬は、仏道のみならずあらゆる人間関係にとっての障害だろう。
 なぜ慢心し、また嫉妬するのか。それは、比較しようのないものを無理に比較するからである。
 思えば我々は、小学校の頃からあまりにも安易に他人と比較することに慣れてしまった。同じ熱意で向かえないものの点数を比較しても、じつは何の意味もないのだが、学校というのは便宜上比較することを避けられない場所なのだ。ただこの「便宜上」ということを忘れるからとんでもないことになる。
 たとえば「A君はなんて優しいんだろう」と思い、また「B君は素晴らしく算数ができる」と感じる場合、禅的にはそれ以上比較しないことが重要である。A君もB君、そこにおいて最も生命力の発露を感じるなら、その状態を禅語では「柳は緑、花は紅」と云う。ところが人は、柳に花がないことを批判しては慢心し、また桃に鮮やかな新緑のないことを恥じて柳を嫉妬したりする。柳と桃の花を、無理な基準で比較するからおかしくなるのである。
 あらゆる生命体は、その別個の在り方を愛でるべきだと禅は考えるから、まずは半端な比較をやめ、「家風」としてその個別性を尊重することが肝要なのである。
 ただ会社では、むろん従業員の全てに個別の仕事が与えられることなど考えられない。個性とは、むしろ同じ仕事をすることで明確に滲み出るものだから、一律の仕事をすること自体に問題はない。問題は、その結果を効率や出来高だけで比較してしまうことだ。
 自分の仕事の効率はさほど良くないのに、じつは他の人々の効率をあげているような存在に、社長だけでなく皆が気づくべきなのである。
 また会社というのは、全員で一つの生命体のようなものだから、足の裏より手や首のほうがエライなどと思ってはいけない。部長がヒラより人間としてエライわけではない。仏教の「縁起」を持ちだすまでもなく、全てが依存しあってさまざまな「役」が発生しているのだから、ひとまず自信をもって自分の「役」に徹するしかない。それを「随所に主と()る」と云うのである。その「役」に全力が傾注できていれば誰もが「主人公」だ。
 またこれは会社ばかりではないが、全ての人は「やおよろず」的な存在だと思っておいたほうがいい。たとえばC君は、計算が速く、カツ丼が好きで、しかも色が黒くて、毛深い、という場合、そこから統一的なキャラを導くことは困難だし、無意味に違いない。ということは、社内の誰かを評価する際、我々は勝手に分かりやすいデータだけを集め、理解しやすいキャラを作りあげているということだ。そんなものはフィクションであり、あくまでも人間は「把不住」(はふじゅう)。やおよろずでつかみきれないのである。
好意をもって相手と接する
 本質的に理解できない相手と我々は向き合うわけだが、その際、関係を左右する最大のものは好き嫌いという「感情」であることを、充分に理解しなくてはいけない。
 口を開けば、D君は遅刻が多いから嫌いだ、というような理屈を我々は述べるが、じつはなんとなく嫌いという印象が最初にあり、それを合理的に語れる材料を無意識に我々は探していて、ほどなく「遅刻」を見つけたに過ぎないのである。
 禅語に「花を弄すれば香衣(かおりころも)に満つ」という言葉がある。普通これは、花に触れれば香りが衣に移る、朱に交われば赤くなるみたいに解釈されるのだが、じつは「香衣に満つ」という佳い影響を受けるには、その花が可愛いと感じて愛でる(花を弄する)という行為が不可欠だということだ。対になる句は「水を(きく)すれば月手に在り」というのだが、月が仏性を象徴するのはいいが、それだってまず水を手に(すく)ってみなくては映らない。いわば、水に対する好意というか、とにかく触れて掬ってみたくなることが前提なのである。
 そんなふうに上司が部下を見てくれたらどんなに素晴らしいだろう。人の欠点を見つけるのはじつに容易(たやす)い。通常の理性がありさえすればいい。しかし美点を見出すには、まず好感をもって相手を優しい眼差しで見つめることが不可欠だ。そして人は、そのような関係からしか大きな「影響」は受けないのである。
 要するに上下に拘わらず、人間関係を改善するにはまず相手に対して好意をもつことが重要だということになる。しかしそうは云っても、誰に対しても優しい眼差しが注げるようならすでに慈悲深い仏さまではないか。そんなの無理だと、思われるに違いない。しかし無理を目指すのが「菩薩」というもので、ここではやはり『法華経』に出てくる常不軽菩薩(じようふぎようぼさつ)という方をご紹介したい。
 この方は、いつどこで誰に会っても、何をされても相手を礼拝し、「私は深くあなたを敬います。軽んじません」と呟いたらしい。それは、あなたもいずれ仏になる人だから、という理屈、というより信仰の結果なのであるが、生半可な覚悟でできることではないし、急にそんな態度をとられたら気味悪がられるのがオチだろう。
 より現実的な考え方としては、その場の相手の在り方は、常に私との関わりの中での「出来事」だと捉えることだ。こちらが好意で接した場合と、疑いや嫌悪を秘めつつ接した場合では、明らかに相手は違った状態になる。つまり、その人が嫌な奴になってしまったとすれば、その責任の一分は明らかに自分にあるのだし、逆に相手が素敵になるのにも自分は関わっているはずだ。仏教の云う「相互依存=相依性」は、相手のキャラを固定的に見ず、その場に発生する「出来事」と捉えるのである。
過去の嫌な記憶を忘れ去る工夫
 その場合、最も問題になるのは、過去の嫌な記憶である。相手の顔を見た途端に甦る記憶というのは、たとえば嫁姑問題の核心部分でもある。今日はなにも起こっていないのに、一瞬に過去の忌まわしい言葉や行為の記憶が甦り、それを附着させた頭で相手を見てしまう。むろんそれでは決して相手の美点は見えない。それなら過去の記憶はどう処理したらいいのか、それが問題である。
 基本的には、忘れてしまえば一番いいのだが、一旦記憶したことを忘れるよりは、記憶しないように努力したほうがいい。嫌な言葉や行為に接したとき、それを記憶に残さないためには、一番はその場を立ち去ることだ。しかしそれでは相手もさらに激怒しかねないから、ここでは裏技を使い、「吾、我を喪う」という状態になる。別な言い方をすれば、魂だけ出かけてしまうこと、あるいは「呆ける」と云ってもいい。とにかく無駄なエネルギーを怒りなどに使わず、その場は腑抜けたカラダだけに任せ、魂は休養をとろう。
 そういう技術が習慣化すると、越後の良寛さんのように「大愚」になることができる。あのお方の場合は道号だが、禅ではこれほどの褒め言葉もない。昨日笑ったのと同じことに今日また大笑いできるようなら、人間関係は必ずや円満に進むはずである。昨日怒ったことにまた怒るのも悪くはない。最も怖れるべきなのは、昨日の怒りの記憶のうえに今日の怒りを塗り重ね、また昨日の笑いの記憶のせいで今日は笑えないことだ。
 すべての感情も記憶も一旦「無」にリセットし、今は今でまた「無」から全てを立ち上げるというのが禅だと云っても過言ではない。そのような「前後際断」が難なくできるようになれば、すでに日々是好日(にちにちこれこうにち)なのである。
 チンパンジーは三日ほどで失う記憶が多いらしいが、人間の場合は何年もまえの恨みごとまで密室に仕舞ったまま保存するから、すでに変質して悪臭を発している。そんな頭で「今」を見ることじたいが、どだいナンセンスなのである。
 本来、我々の脳には必要な忘却力も具わっているはずだが、それを狂わせるPCなどの文字情報にも用心する必要がある。恨み辛みを書き残すのだけは日記でもやめたほうがいい。そうして明記したことは、いずれ口にも出してしまうし、それは必ず本人に伝わる。なぜかは説明できないが、そうなのである。
 以上、人間関係を良好に保ち、また壊れるのを予防するための基本的態度と、その方法について述べてきた。簡単にまとめれば、まず比較をやめ、慢心せず、嫉妬せず、好意をもって優しい眼差しを相手に向け、人間関係は私にも責任ある「出来事」なのだと捉えて、常不軽菩薩のような心がけで、しかも「呆け」という裏技も使って嫌なことを記憶しないようにする、ということになるが、如何だろうか。 
観音力を高める切り札の四十二文字
 え? 難しい? それが出来るくらいなら悩みはしない?
 なるほど。それでは最後に、最悪の人間関係をすでに抱えて悩んでいる人のために、最高の呪文をお伝えしよう。たった四十二文字だから覚えてほしい。『延命十句観音経』というのだが、じつは観音さまこそ人間関係のオーソリティーであり、これを唱えることで観音力を身につけていただきたい。
 「観世音(かんぜおん)南無仏(なむぶつ)与仏有因(よぶつういん)与仏有縁(よぶつうえん)仏法僧縁(ぶつぽうそうえん)常楽我浄(じようらくがじよう)朝念観世音(ちようねんかんぜおん)暮念観世音(ぼねんかんぜおん)念々従心起(ねんねんじゆうしんき)念々不離心(ねんねんふぃりしん)
 何度も念じているうちに、きっと自分のなかに眠っている観音力が目覚めてくるはずだ。観音力とは、自分が拠り所と考えているものが幾らでも変えられるという力のことだ。相手に応じ、状況に応じて、自らが三十三つまり無限に変化する。当然それによって相手が変わり関係性も変わる。
 少し冷静に考えていただければ、(ひど)い関係の相手に向き合うときの自分は、とりわけ「我」が強くなっていることに気づくだろう。「いや、私は我慢している」と云ったところで、我慢もある種の慢心であり、我欲なのだ。この「我」は、どうしても自分の都合ばかりを最優先する代物で、要はこれが人間関係を「ガタピシ(我他彼此)」ひび割れさせてしまう。
 先のお経を何度も唱えることで、まずその「我」を溶暗する。どんなお経でもそうだが、丸暗記したものを再生する時間に「我」は現れることができない。感覚は鮮明でも、再生中は一切の思考ができなくなるからである。
 しかも折に触れてその呪文の意味するところが滲みだしてくる。
 観音さまに、正しい在り方などはない。本来の私などというものもない。ただ状況に応じ、因縁に従い、最もフレクシブルで自由な心そのものとしてどこにでも現れる。いわば心が最も活潑な状態のあなたこそが観音さまなのである。
 特に人間関係に悩み、嫌な人と今日も遭わなくてはならないと苦しむ怨憎会苦(おんぞえく)の人、あるいはウツになりかけの人に、是非このお経を唱えることをお勧めしたい。
 そんな非合理なことできるか、というなら「金輪際」を待つしかない。しかしとことん崩れた人間関係は、非合理であれ何であれ、自分が変わることでしか変わり得ない。おそらく人間は、無限の縁起のなかで、いわば説明しようがないほどの非合理さで変化する生き物なのだ。合理は「我」のうちであることを忘れてはいけない。


蘇東坡詩選
柳緑花紅真面目(柳は緑、花は紅、真面目)
『東坡禅喜集』
「唐宋八大家」の一人に数えられる蘇東坡の禅に関する詩文や逸話などを集録したもの。二度にわたる流罪の経験などを通して蘇東坡は禅に傾倒し、数多くの禅に関する詩を残した。それらの詩は日本において室町時代中期以降から盛んに用いられるようになった。


臨済録 (岩波文庫)
『臨済録』
随所作主立処皆真(随所に主と作れば立処皆真なり)
『臨済録』
臨済禅の宗祖である唐の臨済義玄の言行録で、弟子の慧然によってまとめられた。「無事の人」に到達しようとする臨済の自己格闘の軌跡を読み取ることができる。「仏もなく、法もなく」として、道を究めようとする者に「平常無事」であることを説いている。

無門関 (岩波文庫)
『無門関』
主人公(しゅじんこう)
『無門関』
宋の禅僧である無門慧開が編んだ公案集。慧開が四六歳のとき、弟子たちの求めに応じて、禅録のなかから四八則を選び、評唱などを加えたもの。公案の数が少なく、実践的な入門書として、盛んに利用されてきた。「東洋的無」「絶対無」の原典として世界中に知られる。

碧巌録〈上〉 (岩波文庫)
『碧巌録』全3巻
把不住/日々是好日(はふじゅう/にちにちこれこうにち)
『碧巌録』
北宋の圜悟克勤が公案集『雪竇頌古』に解説や論評を加えたもの。禅の代表的な教本とされており、この書の様式にならった公案の提唱録が多くあらわれるようになった。日本の禅の世界にも大きな影響を与えた。『仏果圜悟禅師碧巌録』『碧巌集』とも呼ばれる。

唐詩選〈上〉 (岩波文庫)
『唐詩選』全3巻
掬水月在手 弄花香満衣(水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ)
『全唐詩』
唐の時代には、絶句や律詩など新しい詩体が確立し、数多くの優れた詩人が輩出された。また、形式美を求めた初期に対して、晩期は精緻優艶を重んじるなど時期によって詩風に変化が見られる。そうした唐詩のなかから、清の康熙帝の命によって選ばれたもの。

荘子 第1冊 内篇 (1)
(岩波文庫 青 206-1)
『荘子』全4巻
吾喪我(吾、我を喪う)
『荘子』
中国戦国時代の思想家である荘子によって著された道家思想を伝える古典。内篇七、外篇一五、雑篇一一の計三三篇からなる。善悪、美醜などを相対的な価値でしかないとして、それに惑わされて無用な苦しみを味わわないよう「自ら然る」道理に身をまかせることを説いた。

参考図書選択・解説/編集部     
「PRESIDENT」2008.06.16