「手紙の抜苦与楽」玄侑宗久 かつてのつらかった時間というのは、どうやら忘れる仕組みがあるようである。道場にいた頃に弟から来た手紙を読み返してみて、つくづくそう思った。
 弟と私は、二つ違いだがほぼ同じ時期に道場に入門した。弟はさほど悩むようすも見せず父と同じ鎌倉の円覚寺に、私はいろいろ思い悩んだ挙げ句、京都の天龍寺に入門した。むろん弟も頭を剃って入門を決意するまでは大いに悩んだのだろうが、どこの道場にするかについてはあっさり父の勧めに従ったかに見えた。
 道場による雰囲気の違いは大きいだろうと思うものの、こればかりは入ってみなくてはわからない。入門して少し余裕ができるようになると、お互いに自分の道場の様子や体調などを書き送っているのだが、思い返すとこれがずいぶん当時の私を支えてくれたような気がする。
 残っている手紙から推察すると、最初の便りはどうやら私が出したようだ。五月十三日付で弟からの返信が届いているから、四月の最初の大摂心(おおぜつしん)が終わり、二度目の大摂心のまえのやりとりだ。
 弟はまず、「膝や腰の具合はいかがですか」と気遣ってくれている。きっと私は、とにかく坐禅する時間が長すぎ、誰の膝かわからないような状況を書き綴ったのだろう。先輩から膝に効く運動を三種類教わり、夜蒲団にはいると眠くなるまではその体操をしていたものだが、いかんせんすぐに眠くなってしまう。しかし朝には痛みが和らいで安心したことは記憶している。
 ところがどうも腰の痛みというのは覚えていない。弟が気遣うくらいだから、きっと痛くて仕方ないようなことを書いたのだろう。しかしどういうわけか、今はまったく憶いだせないのだ。
 弟は、それに対抗するわけでもあるまいが、自分は右足の太腿の内側が痛くて仕方ないと訴える。弟自身の分析によれば、「これは左足を上にしてばかりいるので、右足で体を支えようという力が無意識にはたらいて、筋肉などが疲労しているのだと思います」という。
 たしか弟は、私よりもからだが固かったと思う。また、読み進めると、いっしゅという一回の坐禅の単位が一時間だという。「新到(しんとう)の場合、長いときは二時間というのは本当に馬鹿げています」とも書いている。
 当時の天龍僧堂では、いっしゅは三十分弱だったし、トータルの坐禅時間は長いものの、いちばん長い夕景の坐禅でも一時間四十五分ほどだったと思う。そんな情報が得られると、ああ、あっちも大変だ、いや、これでもマシなほうかと、なんとなく気がラクになってくる。
 後半には、困った先輩の話なども書かれているが、これはちょっと口外するまい。
 しかしほぼ同時期に入門した兄弟だからこそ、そんなことまで書けたのだろうし、それでどれだけ安堵し、励まされたことかと思う。
 毎月、大摂心が終わるたびに、手紙は往復しているが、内容には次第に余裕が伺えるようになり、休みになったら一緒に飲もうなどという話にも進んでいく。
 今、思うに、当初の腰の痛さを忘れているのも、じつは弟にさんざん愚痴ったからではないだろうか。そんな気がする。
 ちなみに、翌年の正月に実家の父から届いた年賀状には、簡潔に「良い年を迎えたや、否や。当方一応元気」とだけあった。
 簡潔な文章はあとになって効いてくる。良い年、なのだろう。良い年に、しなくてはと、日ごとに良い年の気分になっていったのを覚えている。きっと私は、そんな何通かの手紙のやりとりで痛みや辛さを忘れ、年ごとに良い年にしてきたのだと思う。


「大法輪」2008年10月号
「大法輪」 2008年10月号