命軽き時代 はるかな誓願をもとう/玄侑宗久
 
 このところ、なにか犯罪が発覚したような場合、容疑者が「きょとん」としていることが多い気がする。つまり、重大な罪を犯したという自覚が本人に芽生えていないのである。
 ときには「人殺しという行為をしてみたかった」ということさえあって驚くのだが、考えてみればこれも(むべ)なるかな、である。
 だいたい罪の意識というものは、誓いがあってこそ芽生える。殺生をしないと誓ったことがなけば、殺人でさえ当人には罪と感じられないのである。
 どうして命が大切で、なにゆえ殺生がいけないことなのか、それを理詰めで教育しようという風潮が今の世の中にはあるが、おそらくそれは無駄なことだ。理詰めで進めるかぎり、どんな意見にも必ず反対意見がありえるからである。
 思えば完全に受け身で産み落とされた我々の命。そのままでは大切にすべき理由は見当たらない。しかしそんな命を大切なものとして慈しみ、育んでくれた人々がいた。そのことで、感覚的に大切そうな命と感じる人々は多いだろう。
 それでも同じような体験を(すべ)ての人が共有できる世の中ではないから、今は尚更(なおさら)誓いこそが大切なのである。
 不殺生戒が仏教発生以来、ずっと変わらず続いてきたのは、それが結局は遵守(じゅんしゅ)不可能であるからだ。律儀なドイツ人の仏教会は、不殺生戒だけを除いて仏教を受け容れると宣言したことがあるらしいが、不殺生戒を字義どおりに受けとめれば無理もないことだ。仏教は植物も動物も対等の命と認め、家畜などという手前勝手な考え方もしないから、今日一日を生き延びるためにさえ無数の殺生をしなくてはならない。そのことを自覚して懺悔(ざんげ)し、不殺生を誓いつづけるのである。
 それほど実現不可能な戒をどうして立てるのか、不思議に思う方もいるに違いない。しかしそれはあまりに合理性に慣れすぎた考え方と云えるだろう。実現不可能であるからこそ、戒は永遠のものになる。不偸(ふちゅう)盗戒(盗むな)も不淫戒(交わるな)も不妄語戒(ウソつくな)も、つきつめれば完璧(かんぺき)な成就が不可能であるゆえに永遠の誓いなのではないか。
 不可能を目指しつづける人間は、たぶん美しくなる。だから「美しい国」であるためには、たとえば憲法9条も、現実に合わせて変えるなどと発想してはいけない。
 むろん個々人がそれぞれ(はる)かな誓願をもつことが何より大切なことだ。どんなに細々(こまごま)と法令を作り、あるいは道徳教育に力を入れようとも、本人がそれを守ろうと誓わなくては罪も自制も生まれないからだ。
 どうも最近は、外側から人を法令や決まりで一律に規制しようという風潮を感じる。どんどん網の目のように法令が増えているのも事実だ。しかしそんなことで「きょとん」犯罪が減るはずはない。
 問題は誰に向かって誓願を立てるのかということだが、尊敬する師匠がいれば最高だろう。それがいなければ、……畏怖(いふ)する雷親父(おやじ)。神……、仏……。ああ、問題の中心が見えてきた。
 近頃の人々の不幸は、実現可能な目標ではなく、遥かなる誓願をもとうという発想のないこと、そして誓う相手が見当たらないことかもしれない。
 
 01年に「中陰の花」で芥川賞を受賞。福聚寺(福島県三春町)副住職。

朝日新聞 2008年1月10日朝刊

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