このところ、あちこちで安倍総理の「テロに屈しない」という言葉を目にし、耳にする。なるほど何かに屈するというのは、格好が悪いしぶざまにも思えるのだろう。この言葉が割とスンナリ受け容れられているかに思えるのは、何事にも屈するよりは屈しないほうがいいという、根拠の薄い思い込みのせいのような気もする。
 しかしこれは、昨年九月から「ISIL」(いわゆるイスラム国)が標的とする国に掲げたリストにおける日本の位置を、大いに上げてしまう結果になった。実際、湯川遥菜氏に続く後藤健二氏の殺害映像が流されたとき、約一分ほどのメッセージの中で、黒服の男は「日本の悪夢がこれから始まる」「これからも日本人を殺す」などと語っている。
 むろん背景には、「人道支援」のためらしい二億ドル拠出がある。人道支援ならISILも納得すると思ったのかもしれないが、それは甘すぎる判断というしかない。ISILという新たな「部族」は同族の利益だけを優先し、それ以外の「敵」を利する行為はすべて敵対とみなす。総理のお人好しな理屈も、彼らには欧米追従としか見えない。集団的自衛権を持った直後であれば尚更である。
 とにかく彼らは聖戦(ジハード)という異様な「大義」を掲げ、自爆テロも辞さない。「大義」を信じる人々はけっして簡単には「屈しない」し、壊滅もできないだろう。
 そんな相手に「屈しない」と言いつのることは、「突っ張る」ことに等しい。あまり突っ張れば、テロを辞さない彼らの土俵に載ることになる。次にテロリストたちが考えるのは、おそらく新幹線の爆破、そして原発などへの自爆テロではないだろうか。
 一国の総理ともなれば、弱気の発言も出来ない雰囲気なのかもしれないが、同時に言葉の重さにも充分注意してほしい。相手とすれば、「たとえどんな犠牲が出てもテロには屈しない」と聞こえるだろうし、明らかな宣戦布告だと言われても仕方のない言葉ではないか。
 もとより総理は、アラブと同じ時にイスラエルを訪問するという失策を犯している。お人好しなのはいいが、効率優先で人情を無視した結果、あちこちで批判が渦巻いているはずである。
 要するにこの国は、これまでどう見ても無防備だったしお人好しだった。いや、むしろそれがこの国の魅力だったとさえ言えるだろう。しかし今や勇み足が重なり、テロの対象国になってしまった。
 今からでも、欧米とは横並びでない独自な立場をはっきりさせ、別な表現を使うことはできないだろうか。無辜の人々が理由もなく殺されるのを避けるために、今は「臆病」と言われても忍ぶ、というのが真に勇気ある態度だと思うのだが、もう手遅れだろうか…。

 
福島民報 2015年 2月22日 日曜論壇