七月十五日、徳島新聞社主催・福島民報社共催によるシンポジウムが徳島市文化センターであり、お邪魔してきた。徳島新聞社には、いわき市出身の岡本光雄さんという方がおり、震災後も継続的な支援を考えてくださっている。
 岡本さんの司会で前半は鎌田東二さんと私が話し、後半は瀬戸内寂聴さんやスパリゾート・ハワイアンズの斎藤一彦さん、盛和塾徳島代表世話人の石原譲さんなどをシンポジストに、徳島県知事の飯泉嘉門さんが進行した。
 およそ千人の人々が雨のなか集まってくださり、非常に有意義な集まりだったわけだが、散会になった後、会場裏口のほうに出てみると、「福島から来てるんです」という二組の母子が訪ねてきてくれた。
 聞けば自宅は二組ともいわき市で、常磐藤原町だというから、ハワイアンズの近くだ。「あの返は線量も低いでしょ」。私が言うと、母親の一人は「放射能じゃなくて、地震で家が住めない状態になったんです」と答えた。いわゆる「自主避難」で、今は徳島市内の借り上げアパートに住んでいるのだが、「今後どいしたらいいのか分からないので来てみた」というのである。
 三十代と思える二人の母親は、もともと友人らしく、一人が先に徳島に入り、半年ほどまえにもう一人も誘われ、子供と一緒に徳島に来たという。「旦那さんは?」と訊くと、二人ともいわきで働いているようだ。
 あらためて「どうしたら?」と訊かれても、私としては「戻ってきてほしいですよ」と言うしかない。
 しかし彼らにすれば、わざわざ徳島に避難したことの意味づけも欲していたに違いない。
 私は小学生らしい女の子に、「こっちに友達はできた?」と訊いてみた。「うん、できたよ」と四人の子供たちは答えたり、頷いたりした。子供はやっぱり逞しいと思う。私はあらためて彼ら全員に向かって言った。「徳島の友達をつくって、そして福島に帰ってきてね」
 地震で住めない状態だというが、旦那さんはそこから一人で職場に通っているのだろうか。線量は関係ないとは言うものの、どこかに「フクシマ」で括られる被差別の意識もあるのかもしれない。
 雨の上がった文化センターの裏口で、母親たちは元気に「分かりました」と答えて帰って行った。
 私は徳島から羽田に飛ぶ飛行機の中で、いったいどれほどの家族がこうして福島からバラバラになって全国に暮らしているのかと思った。まもなく八月盆だから徳島では阿波おどりが始まる。いわきではじゃんがら念仏踊りが、例年どおり行なわれるはずである。


福島民報 2013年 8月4日 日曜論壇