日曜論壇 目次
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第37回 「情報」という名の幽霊
第36回 死ねる病院はどこ?
第35回 墓地共用のすすめ
第34回 花散らぬ、嵐
第33回 七転び八起き
第32回 まもなくクランク・アップ
第31回 新作『阿修羅』のこと
第30回 それぞれの立場
第29回 生物多様性と多文化共生
第28回 団子と頭痛
第27回 さまざまな正月
第26回 金風
第25回 お寺のゴミ問題
第24回 私は裁きません!
第23回 なんのための改名か!
第22回 新しい郵便局にお願い
第21回 未然防止策?
第20回 奈落の月
第19回 ちょっと待って!
第18回 若冲展に思う
第17回 嗜好品という文化
第16回 約束
第15回 母から子への手紙
第14回 無鉄砲と、鉄砲
第13回 「小学校英語」必修化に反対!
第12回 木瓜と認知症
第11回 「満」と数え年
第10回 いくつもの春
第9回 ネコとヒトの教育
第8回 電話の電話、郵便の郵便
第7回 同期の不思議
第6回 御朱印コレクション
第5回 自燈明
第4回 帰りなん、いざ!
第3回 ウォーキング・サピエンス
第2回 形而上的おぼん
第1回 タケノコ狩りと自立
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以前、私はあるエッセイに、入国に際して指紋や写真を要求し、容疑者扱いするような国には今後永久に行かないだろうと書いた。すると編集者が気を利かせ、「これはちょっと過激すぎませんか」と言うから、助言に感謝しつつ「この制度が続くかぎり行かない」と修正したものだった。むろん、当時はアメリカのことだった。
しかし二〇〇七年の十一月二十日、わが日本も同じ制度を始めてしまった。いったい私はどうしたらいいのだろう。
最近はどうもこのことに限らず、特にいわゆる先進諸国においては何かを「未然に防止しよう」という考え方が目立つ。今回の措置も、テロを未然に防止するため、という趣旨で昨年の五月二十四日に制定された法律に基づくものだ。
しかしテロリストという存在を、世界は大きく誤解してはいないだろうか。彼らは生まれつきテロリストとして生まれ、どこか外国に侵入するのではなく、どこででも、なんらかの事情で、やむを得ず、テロリストに「なる」のである。
貧困、差別、戦争被害など、その原因はむろん複合的で単純ではないだろう。しかし間違いなく云えるのは、疑われたり虐げられるだけで、人はその気に「なる」生き物だということだ。
経験上、
賽銭箱
(
さいせんばこ
)
を破られた場合でも、鍵を厳重なものに替えたりすると必ずまた破られる。疑われたことを、彼らは瞬時にエネルギーに変換するのだろう。しかしそのまま放っておくと、向こうもその気に「ならない」ようなのである。
また万が一、危険な人物がそこを通ったときのために一つのシステムを作ると、人間の深層心理はその万が一を待ち望むようになる。せっかく何億円だか何十億円もかけて設備を新たにしたのだから、それが何年も無駄になることは耐えられない。ああ、準備しといてよかったと、思いたいのは自然な人情だろう。だから人は、表面上は防止のため、と思っていても、その準備を充実させるほどに、じつは深いところでテロリストを待ち望む体制を作っているのである。
つまり今回日本は、国をあげてテロリストを待ち望み、また養成する体制を整えたということだろう。
だいたい今の世の中は、未然防止のための措置に溢れている。コンビニのレジに置かれたカメラの六割以上は現在未然に警察に直通になっているし、子供たちだって将来の職業を未然に告げさせられる。手術では未然にインフォームド・コンセントを求めるし、葬儀屋は葬儀の設計まで未然にしようとする。もちろんそれ以前に、なにが起こってもいいように未然に保険に入っている。そして会議しようと思うと、希望される結論が未然にレジュメになっていたりするのである。
それはほとんど、計画性という範囲を超えている。もっと人間を信用したらどうかと思ってしまう。なにかが起きた、あるいは起きそうになったその時に、みんなで
智慧
(
ちえ
)
を絞ったらどうかと思うのだが、それでは遅いのだろうか。
泥縄という批判が聞こえてきそうだ。しかしいつか来る泥棒のために用意した縄で人々を縛り、ついには自分が首を吊るようなことにならないだろうか。それが心配である。
すべてを未然に解決しようと思えば、生まれないに越したことはないのだから。
福島民報 2007年 12月 9日 日曜論壇