以前葬儀屋さんから「お歳暮です」と言われ、前世を見るという人に見てもらったことがある。要するにその見料を、葬儀屋さんがお歳暮として支払ったようなのである。
 五十代に見えるその男性は、私の顔をしばらく見てから、「前世もお坊さんですね。たぶん天台宗でしょう」と言った。半信半疑ながら、少しワクワクして待っていた私は、なんだか拍子抜けした。もう少し突飛な前世を、どこかで期待していたのだろう。
 今回の編集部からの提案は、「今の仕事を捨てたら」ということなのだが、現実に捨てることはたぶんあり得ないから、来世ではどうだろうと考えてみた。すると自然に、お歳暮の前世が甦ったというわけである。
 来世のことなど現実的には考えようもないが、希望としてはまた禅僧になり、しかも小説を書いていたいと思う。
 遠藤周作さんは自らの創作活動について「苦楽(くるたの)しい」と表現した。それはたしかに苦しいけれど、創作に因らなければ得られない、堪えられない楽しみにあるということだろう。禅僧にとっての修行も、その意味では似たような「苦楽しい」時間である。
 双つの「苦楽しい」仕事ができるのだから、これは豊かなことだ。
 積み重なっていくかに思える現実の時間のほかに、私は度々お経や坐禅で三昧を体験し、時の流れを忘れることができる。
 小説のラストで味わう、苦しさの挙げ句の楽しさというのも、この時間の溶解する感覚に関係しているのではないだろうか。
 通常の分類では宗教と文学という双つに跨る今の私の在り方は、たしかに忙しいと思うことも多い。しかし増えないはずの時間も、じつは流れていない三昧の時間によって増やせるのである。
 おそらく私は、なんらかの事情で今の仕事ができなくなったとしても、また性懲りもなく同じようなことを始めるに違いない。

 
「日経おとなのOFF」(日経ホーム出版社)2006年12月号