この四月から、校長先生や教頭先生による先生方の評価が始まった。先生方の質の低下を防ぐため、その評価によっては再教育なども考えているらしい。しかもその際、先生方自身にも自己評価させ、それも参考にすると云うのだが、いったいどんなふうに「参考にする」のだろう。
 私も教育委員を二期八年務め、最近も校長先生たちと話す機会が多い。やはり現場の校長先生たちは戸惑いが隠せないようだ。校長評価の影響の大きさもさることながら、何より校長先生たちは、自己評価の扱い方に戸惑っているのである。
 おそらくこの制度は、欧米など、子供の頃から自己評価や自己アピールに慣れた国に発したものだろう。そこでは、高い自己評価はそのまま高く「参考にする」ことができる。しかし日本という国柄を考えると、これはどうしても馴染まない。謙譲の美徳もあり、測隠の情もある。つまり、自己評価が高いということが、この国では自惚れが強いことにもなり、また自己反省が足りないことも意味するのだ。
 外国の制度を採り入れようとするなら、まずは日本風にアレンジする必要があるだろう。この点について日本は優れた文化的蓄積を持っていたはずである。漢字から仮名を作り、また新たな仏教宗派まで創出してしまった。これらも驚異的なアレンジ力の賜物だろう。
 このままの形で自己評価が続けられると、その制度に人の心が引きずられるのが怖い。つまり先生方だけでなく生徒たちも、やがては欲望に正比例する自己評価を臆面もなく書き付けるようになることを私は危惧するのである。アピールしたほうが勝ち、というのでは、あまりに日本らしくないではないか。
 日本語では一人のヒトのことを「人間」と呼ぶ。これは中国語だと世間の意味だが、それほどに我々は関係性を重視し、その和合のうちに自己実現もなされていくと考えているのだろう。
 評価はあくまでもお互いを高め合うための刺激にすぎない。そう腹を括って、現場には現場なりの日本的アレンジを期待したい。そうでないと、この制度は日本人の美徳を踏みにじるだけに終わるだろう。


「きょういくEYE」Vol.1-02 (開隆堂出版)