このところ我が国では、外圧に耐えかねたのか、靖国神社を無宗教の追悼施設に作りかえようなどいう意見まで出てきた。いったい無宗教でどうやって追悼するのか、教えていただきたいものだ。
 まず祭壇に代わるものをどのように作り、そこに向かった人はどのような所作をするのか、それを誰か教えてくれないだろうか。
 どこかの宗教で使っている形式を勝手に模倣するならそれは詐取というものだし、それとは全く違う一定の形式を案出するなら、これはある種の新興宗教に近い。国は以前、国家神道という新興宗教を編み出したが、その亡霊が薄れた今頃、またぞろ新たなものを創ろうというのだろうか。
 だいたい、国立というものが如何に政治に左右される不安定なものか、政治家自身がよく認識していそうなものだ。うちの近くの国立病院も、最近になってなくなってしまった。儲かること以外はやめようという今の政治のかなしい結末である。
 日本の歴史的な遺産を通観すれば、その殆んど全てがなんらかの宗教によって守られてきたことは誰にでも判るだろう。宗教は良かれ悪しかれ「継承」こそを重大な責務と考えており、そのために修行のシステムを作り上げてきた。「改革」といって長年続いてきたシステムを次々廃止していく政治に、継承を期待するほうがどだいおかしいのである。
 考えてみれば、行政はこれまでも「告別式」という詐術的な言葉を編み出してきた。葬儀の弔辞・弔電やご焼香の部分だけを取り出して拡大し、その部分は無宗教でできるだろうと踏んだのである。しかし本来はそれら全てを含めて葬儀と呼べるものだ。これも単なる詐取にすぎない。いい加減、宗教から詐取するのはやめて、むしろ多くのオリジンを顕彰しては如何だろうか。これは仏教由来、こちらは神道、儒教という具合に、その起源を明らかにすることこそ大切だろう。
 政教分離を標榜するアメリカでさえ、大統領が聖書に手を載せて神に誓う儀式は続けている。政教分離を拡大解釈しすぎると、あらゆる儀式だけでなく、「誓い」も「祈り」も「慰霊」も「追悼」もできなくなる。あんこが入っていないのにどうやったら「あんパン」と呼べるか、そんな無駄なことを検討するのは儲からないしやめては如何。

「教育新聞」2006年8月28日号/円卓(教育新聞社)