みんなでプリンを食べる勇気



 よく、「平和のために戦う」という言葉を眼にし、また耳にする。目的を達成するためには多少の犠牲は当然と思い、またその努力を讃美する風潮は昔からあるのだと思う。考えてみれば「美しい」という文字は「羊」が「大きい」、つまり生け贄が大きいことを謂うのだから、犠牲の大きさそのものを競っているわけである。そこには、これだけ頑張ったのだから、それなりの成果はあるはずだ、という信仰さえ感じられる。 
 しかし目的が「平和」」ということになると、どうもこの考え方では済まない気がする。
 『老子』第七十九章に「大怨
(だいえん)を和すれば、必ず余怨(よえん)有り」とある。つまり大いなる怨みを持ってしまった者どうしを和解させたとしても、必ず怨みは後々まで尾をひくものだと云うのである。 
 老子は、だから怨みを持たないように努力するに越したことはないと言うのだが、しかし持ってしまった怨みは和解させた方がいいだろう。ところが人は、例えば喧嘩の仲裁というような場面でも、「平和のために戦う」姿勢をとろうとする。だから余怨を残すことになるのである。
 どこの家庭でもあることだと思うが、例えば兄弟が原因はなんであれ喧嘩を始めたとする。その場合、親であるあなたはどのようにして喧嘩を止めさせるだろうか?
 「喧嘩なんか止めなさい」とは誰でも言うことだろう。しかしそんなことぐらいで止めはしない。さて、どうするか?
 諄々と喧嘩の無意味さを説く、という人もいるだろう。しかしそれを聞くようなら初めから大した喧嘩じゃないとも云える。さあどうする?
 怒鳴る。それでもダメなら殴る、という流れではないだろうか? ここに「平和のために戦う」という理屈が、脈々と生きているのである。しかも、じつは諄々と説くところからその流れは始まっている。
 平和であることを望まないことは確かにあり得ない。しかし誰もが望むからといってそれを大義に掲げてしまうと、すぐにそれは戦闘態勢の幕開けになる。これまでのどんな戦争も、この大義が見つかったときに始まったのである。戦争の原因は「正義」だと言ってもいい。だから親も、喧嘩を止めさせるという正義に染まり、その正義を貫くためには「愛の鞭」も惜しまない、となるのだろう。
 しかし、子供は親の真似をするものだ。自分の要求を通すためには、ああ、怒鳴ったり暴力を使ってもいいのだな、という原理を彼らはそこから学ぶだけなのである。そして気づく。あれ?それは自分たちの喧嘩と同じではないか。ただ親のほうが力が強く、子供の生殺与奪
(せいさつよだつ)を握る権力をもっていたというだけのことか・・・・・・。
 私の知人にかわった喧嘩の仲裁法を勧めている方がいる。子供の喧嘩が始まったら、冷蔵庫からプリンなど出してきてまず子供たちを誘う。それでも大抵喧嘩しつづけているから、構わずに三つのプリンを食べてしまうのだという。そして「あなたたちが喧嘩しているからお母さんが全部食べちゃったわよ」と、嬉しそうに言うのである。
 次の日も喧嘩になったら今度はババロア、その翌日はフルーツポンチというように、いずれ子供達の好きなものを美味しそうに食べてしまう。むろん自分もすきなものにしておくべきだろう。たいがいそれが三日も続くと、子供たちも考える。「どうもこのまま行くと、自分たちは大変な損をするのではないか?」ほぼ三日程度で、喧嘩を止めるようになると、その人は言うのである。
 もちろんこの方法にも犠牲はある。喧嘩が一日一度とは限らないから、そのたびに食べていては糖尿病になるかもしれない。家庭の平和を実現するために糖尿病になるのも美しいかもしれないが、そこはそれ、何年も生きてきた大人なのだから考えてほしい。要は、平和とはそのようにして実現するものではないか、ということなのである。近頃の世界には「愛の鞭」の論理が満ちている。しかし「愛の鞭」が通用するのは、鞭をふるう側の力がふるわれる側に勝っている間だけだから、そこで達成されたものも本当の「平和」などではなく、余怨くすぶる膠着状態にすぎないのではないだろうか?
 老子はまた「三宝」の筆頭に「慈
(いつく)しみ」を挙げ、慈しみが溢れる存在は人々の心服が得られているから本当の意味で勇敢になれるのだとも言う。戦争をして儲けたいとか、食料問題のためにも少し人口を減らしたいとか、そういうことじゃなく本当に平和を希求しているならば、我々はむしろみんなでプリンを食べる勇気を持つべきなのではないだろうか?
 私は別に、ブッシュ大統領だけに申し上げているわけではない。


「夢点々」福井県の方の個人誌