桜 日本人の心の花
 誠の花



 桜には、複雑な思いがある。むろん私とて、桜の美しさに単純に打たれないわけじゃないのだが、桜は私にとって、単に観賞する相手では済まない存在なのである。
 うちのお寺には大正五年に、四人の檀家さんによって三百五十本のソメイヨシノが植えられた。苗木および植樹行為のご寄付である。江戸時代の境内地図には四本のベニシダレがあったことが示されているが、それもあってのことだろう、墓地じゅうを桜で埋め尽くそうという考えを、その四人はもったらしいのである。お陰で現在は春になるとじつに大勢の皆さんが全国から花見にいらっしゃる。墓地は爛漫たる花の山になるのである。
 それはそれは美しく、樹齢四百数十年とおぼしき枝垂れ桜には夜間照明も当てられるから、私は居ながらにして幽玄な夜を満喫できる。しかし本当のことを言うと、私はそれまでにかなり疲れている。三月も半ばを過ぎると電話での問い合わせが始まる。多いときには一日二十本を超えるだろう。「いつ頃咲きますか」と訊かれても実際開花は数日でかなりずれる。去年のように四月八日に満開だった年もあれば月末にようやく咲き初める年もある。その辺の微妙さも申し上げなくてはならないから、電話での返答もけっこう時間がかかる。なんとか説明を終えて受話器を置くとまた同様の電話、という状況が、こちらがお葬式であろうと法要中であろうと起こるのである。「世の中にたえてさくらのなかりせば、春の心はのどけからまし」と在原業平は歌ったが、まさしくそんな気分になる日も多い。桜が散るころになるとようやくこちらにも余裕ができ、花吹雪に佇む人に次のような歌を聞かせることもできるようになる。
 「盛りには訪(と)う人多し咲く花の あとを訪うこそ情なりけれ」「ああ、遅かった」と嘆く人を、そんなふうに慰める気分にもなるのである。
 しかしそうした現実の煩わしさはあっても、やはり桜は美しい。永かった冬が終わり、種蒔き時を告げるという喜びも加わって体が一気にほどけてくるような喜びがそれまでの疲れを瞬時に溶かす。古代中国では、冬のあいだ水底に潜んでいた龍が空に昇るため春は空が霞むのだと考えたが、まさに桜の精が我々人間の精気をも誘いだすように、渾然とした気が桜の花の周囲にはたちこめるのである。それは梅の香りや桃の無邪気とはまた違う、非現実的な力を秘めている気がする。
 なんとも言い難いその気配が、花の精として感じられ、あるいは更に昔、神としての「さ」が降り立つ処(「くら」)とも呼ばれたのだろう。「さくら」の語源については他に「咲く、うらら」短縮説があるが、私には前説のほうが圧倒的に説得力がある。殊に福聚寺(ふくじゅうじ)のベニシダレは原種がエドヒガン桜であるため京都の円山公園などの桜に比べると花のつきかたが密であるせいだろうか、満開の様子には「華やぎ」というより「妖気」とも呼ぶべき凄みが感じられるのだ。

 そういえば、桜にこうした体から分離する精気を感じた代表的な人は西行法師だろう。
 「吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき」
 体と分離した心が梢の花のほうに漂い、心は花と一体に溶けあっているようだ。彼はそんなふうに歌って出家し、その後も揺れる心を桜に託して歌いつづける。そしてついには次のように願うのである。「ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎのもち月の頃」。また死後の供養にも、是非とも桜をと言い残し、ほぼ願いどうりお釈迦さまの命日の一日後、七十三歳で旅立つ。因みにその言い残した歌とは、「仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば」。おそらく旅立った先は名前のとおり西へ行った浄土であっただろう。
 花といえば桜、というこの時代を迎えるまでには、むろんいろんな変遷があった。桓武天皇が平安京に遷都したころはまだ外来種である梅が優勢であり、当初は紫宸殿(ししんでん)前庭に左近の橘に対して植えられたのも右近の梅だった。それがおそらく九世紀あたりに、日本原産である桜に植え替えられたらしい。いわゆる国風文化と云われるものが醸成される気風のなかで、桜は著しく勢力を広げてくるように思えるのだが考えすぎだろうか。そしてその時代は、仏教的にも浄土教が広まっていく趨勢にあった。富士には月見草がよく似合うと太宰は言ったが、私も真似て言うなら、阿弥陀の浄土そのものは蓮に譲るとしても、死にゆく時の移ろいにはこれ以上ないくらい似合うのが桜なのである。梅はと言えば儒教、あるいは武士道だろう。武士を捨てた西行も、だから出家することで梅を捨て、桜の浄土を観照しつづけたのではないだろうか?
 西行ならずとも感じるこの桜の精を、さらに深く凝視したのは世阿弥である。
 世阿弥の能楽論である『風姿花伝』に云われる「誠の花」は、むろん「能」の美学上のことではあるが、それは人間の花と云っていいだろう。しかもそのイメージは、明らかに桜である。
 幼い頃は「心のままに」させて芸の花を開かせ、童形ではそれが「いよいよ花め」くという。しかしこれは「誠の花」ではなく「時分(じぶん)の花」だという。十七、八では声変わりなど、この花を隠す要素が現れるから「願力を起して」精進せよと云う。このあたりが番茶の出端(でばな)を花と呼ぶ今の風潮とは違う。更に二十代も「一旦の心の珍しき花」であって本物ではない、と手厳しい。三十代は盛りであり、「天下に許され、名望を得つべし」。四十代はその延長上で、マイペースで自然体で。そして五十代になったら、無駄なところを省き、譲るべきところは若いシテに譲って自分の出番は少なめにする。しかしそれでも「花はいや増しに見え」ると云う。四十代の私でなくても嬉しい流れだろう。しかしその後のことは、まるで桜の老木のことのように迫力を感じる。
 七十二歳で佐渡に流され、八十一歳まで生きた世阿弥だから、晩年についても詳しく聞きたいところだが、残念ながら六十代以降に関しては一括される。即ち次第に枝葉が少なくなり老木になるけれど、花は散らないで残っているというのである。なぜならそれは「誠に得たりし花なるが故」だという。なにか凄みさえ感じる台詞ではないだろうか。
 世阿弥においては、老木にも花が咲かなくてはいけないし、また鬼でも「巌に花の咲かんが如し」と表現される。此の世とあの世との往還さえ表現してしまう彼にあっては、その花とは、まさに花の精であったはずである。

 お寺の本堂前には昔から枝垂れ桜があった。子供の頃にはその木に登り、また根元の地面では石蹴りや釘刺しなどで遊んだりもした。境内に車を入れるようにしていたのが最大の原因だとは思うが、あるいは子供たちのヤンチャも影響しているのだろうか、その老木は十年ほどまえまで表皮だけで生き続け、花も咲かせていたのに、ちょうど最後の花を一枝だけに豊かに咲かせたあと、親指で押しただけで崩れるように倒れた。花を宿す肉体が失くなってしまったのである。
 見方によれば、桜は先祖から子孫まで体が分かれない。だから一本の老木の中で先祖に支えられて若い花が咲いていると見ることもできないことはない。しかし咲いている桜の下に佇むと、全てが一体である。太い幹も細い枝先もそして全体を覆う花も。その中を何かが流れ、閑かにそれは外側にも染みだして空にまで拡がっていく。

 それは確かに人の死を想わせる。内部の機能が停止することも確かに死のもつ側面には違いないが、私には最近それだけでなく、外側との無碍なる融通こそ死の重要な側面ではないか、いや、それこそが死の瞬間の出来事だと思えるのだ。『アミターバ』はそれを小説化した作品である。
 西行がそう思っていたかどうかは判らない。しかし彼が満開の桜の下で死にたいと願い、結果としてそれを叶えたことは、私のこの異様な考えを励ましてくれる。
 目に見える世界と見えない世界、それを物理学者のデヴィッド・ボームは明在系と暗在系と呼ぶが、素粒子はこの二つの宇宙を自由に行き来し、「意味の場」で物質としての形をとるのだと云う。
 また彼によると、暗在系においては物質も精神も時間も空間も全てエネルギーとして畳み込まれていて分離不可能らしい。そこでは、だから私もあなたも彼も彼女も、さらには花も月も太陽も、エネルギーとして渾然と一つに溶けあっているというのだ。
 満開の桜の花に感じる妖しさは、もしかするとこの明在系と暗在系との出入り口が開いている感覚ではないか、私は最近そう思うのである。
 世阿弥より少しあとにはなるが同時代を生きた一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は歌う。 
 「桜木を砕きて見れば花もなし 花をば春の空ゆもちくる」
 花が運ばれてくるその空を仏教的「空」と捉えれば、それはまさしくデヴィット・ボームの云う暗在系でもある。彼は、そこではあらゆる物質が、どこにも存在していないとも云えるし、あらゆる処に存在しているともいえると言うのだ。
 莫迦なことを言うと思われるかもしれない。しかし私には、桜にこれほど狂う人々の様子が、そう思うことでようやく納得できる気がする。明在系というのは、いわば限定された我々の時空間である。それだって本当は、誰にとっても同じ時空ではないと思えるのだが、そこに今度は不定形のエネルギーとして畳まれていた異なった時空や精神、さらには月や太陽のようなものまで染みだしてきたらどうだろう。我々が常識と思っている世界は音もなく溶けだしはしないだろうか?
 私は以前、満開の桜の季節に愛する家族の遺骨を、愛するが故に食べてしまうという小説を書いた。『宴』という作品だが、そんなことが起こるのも桜の季節以外には考えられなかった。
 世阿弥の云う「誠の花」のほうも、やはり常識的な時空間が緩んでくる晩年にこそ相応(ふさわ)しい。「誠に得」たりし、というが、それは儒教的「誠実」のことではなく、此の世の限定された時空を夢幻と見るが故の、それとは違う真実の姿のことだろう。つまり、私やあなたや彼や彼女、という区別が幻と思えた人にこそ「誠の花」は咲くのである。その花には月も太陽も、また無数の時空も染みだす素粒子のように出入りする。それは死であると同時に、最も充実した生なのである。
 ここまで書いてきて、私はふとお釈迦さまの解脱を想った。それは本当は私などの書けることではないのだが、ふとその時ご覧になった明けの明星とは、暗在系のエネルギーが「意味の場」に姿を現した瞬間の輝きではないのか、と思ったのである。別な言い方をすれば「空即是色」、つまりエネルギーが物質として反転する瞬間である。
 死後の世界があるかどうかは、もとより客観的に求めるべき事柄ではない。人間という存在が決して自らの意識の外に出られない存在である以上、それはいわゆる変性意識状態におけるリアルなのである。むろんそれは、無いという意味でもない。桜とは、もしかすると瞑想によるそうした意識の変成を促す「意味の場」なのかもしれない。

「文藝春秋」2003年3月臨時増刊号