私の一点 「鎌倉―禅の源流」展から
 目の悟り   本来の自己「現す」のが真骨頂


 


 新聞紙上でどの程度文字が読みとれるか疑問だが、これは大覚禅師蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が建長寺で弟子に示した言葉である。「無位の真人」(あらゆる立場や役をはなれた本来の自己)を「見る」ことを要求するのだが、『臨済録』の「看」ではないこの「見」という文字に注目していただきたい。
 後半には「金剛経」と道元禅師の「正法眼蔵」から似ていながら反対の言葉が引かれる。「もし諸相が非相なりと見れば如来を見る」という前者と「如来を見ない」とする後者である。
 この矛盾はいったいどういうことだろう。
 じつは「見」は「現」の代わりとしても使う。だから前者は自分が如来になって「現す」のであり、後者はそうなってしまえば外側に如来など「見ない」ということだから矛盾はないのである。
 当然前半でも、禅師は「無位の真人」を見ることではなく、現すことを望んでいるのだ。禅の真骨頂はこの「現す」ことにある。

蘭渓道隆墨蹟 上堂語(十三世紀、紙本墨書、29.1×65.2センチ、大阪・和泉市久保惣記念美術館蔵)