書評:『ロマンティク・デス 月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫) 一条真也著
月落ちて天を離れず



 なんと云えばいいのだろう。解説を書くためにこの本を読み終え、今は少し失語状態である。
 たぶんその、大きな原因は、やはり驚きだと思う。世の中に、しかも日本に、こんなことを考えている人がいた……。そういう感じかもしれない。
 この本は、一ヶ月足らずで書かれたという。よほどのエネルギーが、溜まっていたのだろう。
 じつは私も、日本人にとっての「あの世」とは月ではないのか、と、『死んだらどうなるの?』(ちくまプリマー新書)で書いた。主にお盆や『かぐや姫』の話から、仏教的浄土とは違った日本人の実感を書いてみたつもりだが、そのことを日本ばかりか世界、いや、宇宙的な規模でここまで追求した本が、すでに出ていたのだった。
 引用される多くの人々やさまざまなエピソードは、私にとって馴染みのものも多い。宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』は私も中陰の物語だと思っていたし、メーテルリンクの『青い鳥』だって同じような思いで読んだ。キューブラー=ロス、シュタイナー、ボーム、南方熊楠、あるいは立花隆氏の『宇宙からの帰還』も、個々には親しんでいた。
 しかし一条氏においては、それらすべてが壮大な螺旋を描くように集成され、やがて月のイメージとして収斂していくのである。その総合性と求心性には驚くしかない。
 しかも彼は、この本を単にロマンチックな物語として書いたわけではない。彼は現実に葬儀に関わる葬祭人であり、死の現場をこうした物語で本気で演出していこう、いや、すでに着々と現実化させているのだ。「死」を「詩」に変えることがこの本のコンセプトだと云い、それによってこの世を「ハートピア」にしようというのだ。
 葬儀は、たしかに葬祭業という職業人が現れるに及び、大きく変わってきた。良くも悪しくも、である。
 一条氏は本書のなかで、「根性の入っていないサラリーマン坊主」に触れているが、そうした存在は認めるにしても、一方では営利に偏り、夢も持たない葬儀屋が「背に腹は替えられない」場面で暴利を貪っているケースも目にする。
 べつに葬祭業を責めているわけではない。ともかく我々は同じ葬祭人として、今や一条氏のようにロマンを持つことを求められている。演出によって、死そのものだけでなく、死者によって彩られる生が大きく変わることを、再認識しなくてはいけないのだと思う。
 ロマンは「儚夢」とも書く。「儚い夢」である。
 しかし一条氏にとってそれは、儚いどころか科学における仮説にも等しい。膨大なイメージの求心力で明確になったヴィジョンが、今度は現実化という遠心力に転じるのである。
 アポロの宇宙船が月面着陸に成功したことを、私は『死んだらどうなるの?』で、否定的に書いた。つまりそれによって、昔の人のロマンは儚く消えると解釈したのである。
 しかし一条氏はそんなことではメゲない。メゲるどころか、彼はそれをメカニカルな幽体離脱体験と位置づけ、「月面聖塔」という地球規模の墳墓や、さらには月面ホテルまでも構想してしまう。また進歩したホログラフィーの技術で、三次元に見える「幽霊づくり」まで提案するのである。
 死を重力からの解放と見る刺激的な理論で、一条氏は鎌田東二氏とその著作を紹介し、この本も鎌田氏に捧げる、と書いている。鎌田氏のことはかねがね気になっていたが、やはり痛快なほど、非常識で面白そうな人だ。今度私は鎌田氏の主催する会合に招かれ、講演をしなくてはならない。「逆立ちと仏教と文学」というタイトルで、ご本人から依頼があったのである。新聞で、逆立ちが趣味だと書かれたせいだと思うが、それにしても何というタイトルでの依頼かと思っていたのだが、この本を読んでストンと落ちた。なるほど、逆立ちも重力からの解放だったのである。
 江戸時代も前半までの幽霊は、逆立ちして登場したというが、すでに死と重力との関係に、幽霊自身は気づいていたのだろうか。
 なんだか余計なことまで書いてしまったが、最終的にこの本の解説を引き受けたのは、一条氏が「遊び」という視点の重要さを、終盤で書いていたからである。
 これほど綿密に考え、求心的に月のイメージを充実させながら、彼はその遠心的方向においては、遊びの感覚が絶対に必要だという。その考え方に、私はまったく賛成なのである。
 たしかに葬儀という現実に、「遊び」という言葉は似合わないと思えるかもしれない。誤解を招くと困るから、詳しくは本文を読んでいただきたいが、要するに彼には、各宗派が大マジメに教説を説く様子が、たぶん滑稽に見えているのだろう。宗教に本来具わっていたはずの「遊」は、「宗」つまり「もとのもと」に戻ってみれば当然必要な要素なのだが、各宗派とも、それは組織のなかでは発現しにくい。なぜなら、組織そのものが持ってしまう組織維持という本能、またそれは、自分たちの組織を正当化するというマジメさのせいでもあるだろう。
 「遊」とは、もともとは「神」だけを主語にする動詞だった。であるなら、宗教もそこへ戻るべきだということだろう。宗派ではなく、宗教というものを考える彼には、当然すぎる結論なのである。
 考えてみれば、「宗教」の「教」という言葉には独特の重力がある。その重力からも解放し、宗教的な儀式を「遊」としての芸術にまで高めたいと彼は考えているのだ。
 ディズニーはともかく、キリスト教にどれほど「遊」の意識があったかは疑問だが、ともあれ演出という観点に立てば、キリスト教に学ぶべきことは多いと一条氏は云う。
 そうなのだ。人生も葬送も、演出によって百八十度変わってしまう代物である。演出なんて、あざといと考える人もいるかもしれない。しかし彼の提唱する演出は、最も自然に近い。
 月がどれほど我々の身心に影響しているかを、たぶん我々は無視しつづけたために感じられなくなっているだけだ。海の潮の干満だけでなく、月は地面をも二十センチも持ち上げるという。むろん体内にも干満を引き起こしている。そこにこそ我々が非合理とみなすエネルギッシュな生理がある。合理を超えた「遊」の源があるのである。
 禅では仏性そのものを月に喩える。「月落ちて天を離れず」とは、どんな状態であってもその人に宿っている仏性を信じようという意味である。
 私もこの本を読み、葬祭というものに対してその立場をとろうと思った。
 すでにヴィジョンは提供された。今後も一条氏によってロマンは育まれていくのだろう。それが儚い夢に終わるか現実化するかは、ひとえに「月落ちて天を離れず」と思えるかどうか、つまり「信」にかかっているのである。