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除夜つまり大晦日の晩に梵鐘をつく習慣は、奈良時代に中国から伝わったと一部の本には書かれている。しかしこれはなんだか怪しい。
梵鐘やそれをつく習慣は、たしかに中国から伝わったのだろう。ただそれはべつに除夜に限らないことで、基本的に梵鐘とは刻を知らせ、重要な儀式の始まりを知らせるためのツールである。
だいたいお寺では、全てのインフォメーションは鳴らし物で行なう。
木板、雲板、殿鐘、梵鐘など、鳴らされる物の違いやその鳴らし方で、修行者や客は何が始まるのかを知る。けっして大声で怒鳴ったりはしなかったのである。
正月とは修正する月の略だから、大晦日には一年の歪みを修正し、ニュートラルに戻らなくてはならない。元朝早々にする儀式は、だから修正会と呼ぶ。修正するに当たって、まずは一年間の煩悩を祓いましょうという理屈は、僧侶ならたいてい思いつくかもしれない。しかし煩悩を祓うためには梵鐘を打てばいいなんて、いったい誰が考えだしたのだろう。しかも百八回もである。
通常、大鐘(梵鐘)は儀式のまえに場の空気を清浄にし、併せてその開始を知らせるために、十八回ほど鳴らす。六根・六境・六識の十八界が根拠だという説もあるし、他の説もある。その六倍が百八だが、これは六道すべてに十八ずつ、ということだろうか。むろんこれまた別な説もある。つまりどうも、なにが本当か判らないのである。
煩悩は四苦八苦のもと、だから四九=三十六、八九=七十二で、合わせると百八、というのもよく聞く理屈である。
寺によっては年内に百を打ち、年が明けてから八回鳴らすところや、明けてから一つだけという年内百七回派もあり、いずれも尤もらしく言うけれど、私は浅学にして、新年に持ち越してもいい煩悩とは何なのか、まったく知らない。どだい初めから、百八種類の煩悩を列挙した資料など、お目にかかったこともないのである。
お坊さんたちは昔からいろんな言葉遊びを考察してきた。
たとえばうちの地方では、今でもお墓参りの際に「だんご」を供える習慣があり、しかもご焼香したあとでその「だんご」をいただくと頭が痛くならないと云われる。それとて元々は「だんご」と「談合」の言葉遊びである。つまり、親戚一同が集まった法事やお墓参りの機会に、将来のことも含めてよくよく談合しておけば頭痛のタネもなくなる。だから「談合」すれば頭痛にならない。「だんご」を食べれば頭が痛くならない、と変化したのである。
ボンノーとぼんのん……。じつは大晦日の除夜の鐘と煩悩との間にも、このような言葉遊びの感覚があるのではないか。私にはそう思えて仕方ないのである。
梵音とは、むろん梵鐘の音のことだが、梵には清浄の意味が込められている。『観音経』には「梵音海潮音」とあるが、遠い波音のようにいつまでも響く梵鐘の音が、まさに「ぼんのんぼんのん」と響きながら煩悩を洗いおとしてくれる気がしたのだろう。
私はべつに、そんな言葉遊びだから無意味だと申し上げたいわけじゃない。なんとなくそんな気がすることは、そうしてみるとやはりそんなふうになるから、してみればいいのである。
ただ煩悩を祓う、とはいったいどんな事態なのか、そのことだけは申し上げておこう。
極端な云い方をすれば、煩悩がなくなったら我々は死んでしまう。
煩悩とは、じつは生命力そのものなのだが、横溢する生命力が邪魔になるときが我々にはあり、そんなときだけ煩悩と呼ぶのである。
三大ボンノーと云われるのは、むさぼり(貪)・いかり(瞋)・そして偏った認識(痴)だが、これだって調子がよければ熱情とか義憤、また専門的と褒められたりもするだろう。元々が同じ生命力なのだから、忌避せずに調えるだけでいい。なんといっても煩悩を感じな ければ悟りを目指す菩提心も起こらないわけだから、煩悩そのものを蓮の花を育む水中の泥に見立てることも大乗仏教では一般的である。
それなら生命力が邪魔にならないよう調えるにはどうしたらいいのか。念仏、坐禅、読経といろいろ方法はあるが、要はなにも考えない状態を初めから目指すのではなく、一つの感覚に意識を集中するのがいい。経験上、聴覚が最も有効ではないだろうか。
おお、そうすると、梵音に耳を傾けることで頭が空っぽになり、命が調ってしまう除夜の鐘は、じつに有効ではないか。言葉遊びは巡り巡って真を突いていたことになる。まったく昔の人は、すごいことを考えたものだ。単なるダジャレでは済まない、ボンノーと梵音の関係である。 |
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