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たとえば電話で、「いま何してるの?」と訊かれた場合、「ああ、今は君と電話で話しているんだ」と答えれば、相手は怒らないにしても笑いだすだろう。つまり相手は、たった今この瞬間という意味ではなく、もう少し広い意味で「いま」を使っているのである。ここではたぶん電話に出る少しまえの時間を指しているのだろう。
私は「今」と「いま」を区別して書いている。「今」がたった今の刹那(およそ七十五分の一秒。心が一つだけ宿る時間)だとすれば、「いま」は言葉として表現される「いま」である。
人は生まれてしばらくすると、現物以外に言葉を覚える。たとえば「マンマ」「おっぱい」という言葉を覚えた子供にとっては、実際に母や母乳が目の前に存在しなくても、頭の中にいつでも呼び出し可能なものとしてマンマやおっぱいがリアルに存在しはじめる。彼らは母の不在を悲しんで泣くばかりでなく、いないのに探し求め、その度合いは言葉を知るほどに深くなる。つまり我々の現実は、存在だけでなく、じつは不在まで含めて精妙に織りなされるようになるのである。
追憶に浸る「いま」も、希望に溢れた「いま」も、そうであればこそ可能になる。人生がドラマチックに感じられるのも、「歴史」が発生するのも、そんなふうに「いま」が「今」だけでなく、実際には不在の未来や過去を含んでいるからに他ならない。
しかし禅では「前後際断」せよという。つまり頭ででっちあげた前後との繋がり、即ち歴史を溶かし、刹那を独立したものとして感じよ、というわけだが、本当に完全にそうなってしまうと日常生活も送れなくなるだろう。少なくとも、「情」とはあるまとまった感情の流れだし、一定時間の経過とともに「情」として認識されるから、独立した「今」だけでは、まともな人情もあり得なくなってしまうのである。
「すぐに来て」と電話で云われ、「いま行くよ」と答えたとしても、瞬時にテレポテーションができるはずもない。十分や五分たったとしても、「いま行くよ」という情は理解できるだろう。「あら、十七分かかったわ」などと云う女性とは、別れたほうがいいのである。
過去がそうした形で「いま」に流れ込み、それに沿ったヴィジョンが未来について描かれる。そのとき、人は忘却するからこそ自然な「情」で「いま」を覆うことができるのを忘れてはいけない。
最近は、過去についても未来についても、言葉で詳細に記述しなくてはならないことが多い。どうしてこんなに書類が多いのかと、学校の先生から農業者なでが歎いている。農業者がなぜ書類を、と思われるかもしれないが、出荷する作物に使った肥料や消毒の履歴を、事細かに記述して現物に添えなくてはならないのである。
なぜそういうことになったかは兎も角、そんな書類が何かを解決すると思っていることが滑稽である。
同様に、人間についてもどんなに詳細な履歴書よりも本人の「いま」の姿以上に本人を伝えるものはないはずだが、「いま」よりも文字情報を信じ、それを個人情報などと呼んで後生大事にしているのである。
そのような文字情報のうち多くを、ふつう本人は忘れている。過去の失敗なども忘れているから新たな勇気をもち、また過去に待ちぼうけした体験も忘れるからこそ新たな気持ちで何かを待つことができる。忘却とは、おそらく「いま」に必要なものだけを選択的に取り込むための優れた生命システムなのである。
先日、東京の練馬区に住む子供の父親に聞いたのだが、小学生である子供たちは全員が防犯ベルの携帯を義務づけられているらしい。父親も言っているのだが、もしものとき、彼らは普段使わないベルがどこにあるかを探しているうちにやられてしまうのではないか。そんなことより悲鳴や逃げ足の練習をしたほうがいいだろうと思う。
生身の「いま」があまり軽んじられ、書類や道具ばかりに頼っているのである。
「いま」の安心のためであるにしても、未知なる未来を廉く見積もって「いま」に流し込もうというのが医学界のインフォームドコンセントである。
手術など、してみなくては分からない。私は平均ではないのだし、奇跡も起こるかもしれない。分からないことは分からないままに試してみるしかないのだが、その勇気がないから訊いてしまう。訊かれれば医師はどうしても廉く見積もった予測を告げることになる。なぜなら、予測より早く亡くなってしまえば訴えられる世の中なのだから。
しかしそんなふうに未来が事細かにしかも控えめに表現されてしまうと、我々の命は無意識にその表現された事態を目指しはじめる。言葉によって不在さえもリアルに感じる生き物だからである。手術すれば二年、しなければ一年などと大胆な予測を言われ、手術しないで一年二ヶ月を生きてきたと喜んでいたりするのだが、もしやその人は無意識にその数字を目指していなかったかと、私は危惧するのである。
教育の世界でも一般の社会でも、未来を無難に描いた言葉を求め、それを「目標」などと呼んでいる。また過去についても批評的に描かせ、「反省」したりするようだ。
時の経過による人の変化を、そんなふうに想定内に収めることを戒めるのが「前後際断」の主旨である。「いま」を生きる、というのは非情すぎるが、「いま」は「今」に近づくにつれて活性化し、変幻自在になる。それには目標や反省ではなく、忘却こそ必要なのだが、そのことがあまりに忘却され、無意味な書類ばかりが増えていく。
わざわざ生きにくい「いま」を努力して作るのは、もうやめよう。
「いま」必要なのはわからない未来をわからないままに迎える勇気だけだ。 |
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