今、「大目にみる」というと、なにか悪いことをしたのを見逃すとか、許してあげるみたいな意味で使われるようだ。しかしこの言葉、本当にそういう意味なのだろうか。
 たとえばそのような意味だとしても、世の中には大目にみる態度がどんな場面からも消えかかっている気がする。学校でなにかしでかした生徒など、毎日反省文を書かされ、あまつさえその親にまで反省文を提出させる学校もある。いったい何をしたの? と訊いたら、黙って友だちの学生服を借りてしまい、それを教師が窃盗だと言い募ったのだそうだ。友だちとの間では「ごめんね」で済んでいるのに、である。
 会社が社会に対して何かしてしまった場合も、その処分はずいぶん徹底的である。
責任者の辞職、役員報酬のカットなどは当然としても、とにかく新しい規則をたくさん追加制定することが多いようだ。いったいこれまで苦労して作り上げてきたシステムは何だったのか、というほどの内容改変で、「このようなことが二度と起こらないように」というのが、その際の決まり文句である。
 しかし大局的に見た場合、長年かけて作り上げてきたシステムを、そう簡単に放擲していいものだろうかと訝る。最近新潮新書で『法令遵守が国を亡ぼす』という本が出ているが、読んではいないもののタイトルだけで深く賛成してしまう。つまりそのような偏狭で煩雑なだけの法令や細則が、この国には増えている気がして仕方ないのである。
 私が申し上げたいのは、システムそのものには自信があるのなら、突発的な出来事は大目に見る必要があるのではないか、安易に規則を増やさないほうがいいのではないか、ということだ。

 最近ラオスに行ってきた。
 驚いたことに、彼の国には何歳以上なら酒を飲んでいいとか、何歳まではタバコを吸っていけないといった決まりがないそうだ。
 現地の通訳は「そりゃあ人によっては十歳くらいから酒も飲むし、そのくらいからタバコ吸ってる子どももいますよ」という。これはつまり日本に準えれば、江戸時代の徒弟制度下の徒弟たちと同じ状況だろう。しかしだからといってラオスで病人や犯罪が多いかというと、そんなことはない。
 ラオスの僧侶たちにも訊いてみたが、酒は瞑想の妨げだから禁止されているが、タバコは別にかまわないらしい。ビエンチャンの大きなお寺の道場長の話では、大切なのは「心の平安」であり、そのための瞑想であって、それ以外のことはどうでもいいのだという。瞑想の姿勢も足の組み方も特に決まっていないというから、その徹底ぶりには驚いた。なんだか型から入る日本文化が嗤われている気にもなった。
 ラオスにおいても最近はコンピューターカフェが始まり、そこで多くの僧侶たちを見かけた。また夜に外出している僧侶もいて、その手に携帯電話を持っている姿も見かけた。
 私自身、今の日本の道場でのIT器具の扱いはどうすべきか、考えてもいたので、道場長にもその点を訊いてみた。「このような事態をどう思われますか」と。
 するとその七十歳くらいと思える長老は、静かに私の眼を見つめて「諸行は無常です」とおっしゃった。
 加えて、そのうえで苦の発生のシステムを理解し、心の平安に向かって努力をしてさえいれば、あとのことは「大目にみる」というのである。「大目にみる」とはいったいどういう見方なのだろう。

 私の住む三春町にも住んだことのある一元紹碩という江戸時代の禅僧は、奇妙な墨跡を残した。「観」と「視」とを組合せ、「観」の左に示偏を書いたのである。
 宮本武蔵も「観」の目つよく、「見」の目よわく見るべきことを『五輪書』に書いている。
 要するに「視」という凝視ではなく、「観」という全体視こそが重要だと、禅や武道の立場から主張しているのだろう。
 武蔵にも指南した沢庵禅師は、一カ所に心を留めてしまうような見方を「偏に落ちる」と表現しているが、そうならない「観」によって全体を見ないと、世界が見えないどころか、命を落とすというのである。
 私には、この「観」こそ「大目にみる」ことの原型に思えるのだが、如何だろうか。
 現代の日本と同じような資本主義の波が、ラオスにも押し寄せてはいる。しかしそうした状況でも、何かが根本的に違うと感じたから規則づくめの日本の現状と並置してみたのだが、どんなふうに感じられるだろうか。
 私なりにその違いを分析してみると……、ああ、まさにこの「分析」という見方がこちらでは優先されている気がする。
 向こうの僧侶はなにより瞑想という全体視の習慣があるし、一般の人々もとにかく体をよく動かしている。分析というより、彼らはもっと直観を大切にして生きているように見えるのである。
 思えば人は成長に伴い、この「分析」知を身につけていく。別な言い方をすれば、科学的な知見ということだろうか。大局的・直観的な見方をとりあえず棚上げにし、物事を限定的に詳細に見詰めることで科学は発達してきた。「葦の髄から天井を覗く」という諺がある。言い方は悪いが、これこそ顕微鏡を覗く科学者の姿ではなかっただろうか。大目にみるどころか、微細に局所的に視ることが科学の立場から長年奨励されてきたということだ。
 しかし物事は分析することで実感や直観から離れやすい。
 分析知を身につけていない子どものほうが、むしろ直観力は鋭いのではないだろうか。
 言葉を扱う人間がこんなことを書いては申し訳ないが、言葉に騙されるのも分析知を身につけた大人だけだろう。私は常々子どもたちにも選挙権を与えてはどうかと考えている。言葉に左右されず、直観的にその風貌や気配で感じる彼らのほうが、過った人選をしないのではないだろうか。「なんだかずるそうなおじちゃんだよ」と彼らが見るなら、いかに立派な言葉を連ねようときっとずるいおじちゃんに違いない。子どものほうが、むしろ大目にみているのではないか。

 日本がまだ科学を知らなかった江戸時代、黒船でやってきたペリー総督は、日本滞在中に多くの手紙をアメリカの奥さんに書き送っている。
 そこで彼が繰り返し書いたのは、日本人がにこにこしながら仕事をする不思議な民族だということ。そして礼儀正しく、挨拶も丁寧だということ。それから風呂が混浴で驚いたということである。
 大目にみることがなくなってしまった現代日本はどうだろう。
 仕事はピリピリ、礼儀もなく無愛想、そして混浴など殆んどの地域では見られなくなってしまった。
 まだ三十年ほどまえは、私の住む福島県でも混浴の温泉があった。べつに男女一緒だからと云っても、そこでは大目にみているのであって、じっと見詰めたりはしない。ラオスの酒やタバコと同じで、それだけでは大した問題などありはしないのだ。だから混浴も大目にみてほしいのに、そういう世の中ではなくなってしまった。
 混浴も残念だが、しかし何と言ってもショッキングなのは、当時の日本人はにこにこしながら仕事していた、ということである。
 ラオス駐在の日本人旅行社の女性社員も「こちらは、ストレス、ゼロですよ」と笑っていたが、これはいったいどうしたことだろう。
 考えてみればこれは当然のことで、我々の好きな分析や計画が綿密になるほど、人はにこにこなどしなくなる。にこにこするのは、世界を大目で見ている証拠ではないだろうか。
 大切なのは「心の平安」だけ、という長老の言葉が再び憶いだされる。
 日本語の今の「大目にみる」という言葉には、なんとなく後ろめたさが伴うが、おそらくそれはもっと詳しく分析的に見るべきなのに、という思いが心中に隠されているからだろう。
 しかし本当の意味で「大目にみる」ことは、もっと堂々と誇らしくなされるべきことだ。
 混浴は無理にしても、挨拶を丁寧にしつつにこにこ仕事しながら大目を養いたいものだ。