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生物が海中から地上にあがるとき、彼らは大いに逡巡しただろうと思う。そのまま水の中にいたほうが、きっといろんな面で楽だったはずだが、新世界への思いも断ち切れなかったに違いない。それは母胎で羊水に包まれた胎児の状況にも似ている。そのままなら苦労もないが埒もあかないから、赤ちゃんは覚悟して細い産道をくぐり、気管にまで入り込んでいた羊水をそこで絞りだし、そして初めて見知らぬ空気に触れた。
気管に一滴水がはいっただけでどれほど苦しいかはどなたにも経験からお察しいただけると思う。濡れた気管で初めに吸った息があまりに苦しいので、彼らは一様に「おぎゃあ」と大きく吐きながら泣くらしいのである。
動物がそのような覚悟をしていた頃、藍藻から発達した植物たちは別な覚悟をしていた。それは浮遊しながら生きるのではなく、ある特定の場に根を張り、そこに生きつづける覚悟である。
動物と植物との最大の違いは、そのことではないかと思うことがある。つまり自分にとって都合のいい場所へと移動できる動物と違い、多くの植物たちはその場から動かず、それなりの境遇の変化にも応じる能力を育んだということだ。
人間もたぶん、ここで生きていくという覚悟ができたときから、植物的な適応力を開花させるのではないか。鬱蒼と生えた葉にみずから息苦しくなって「うつ」になることもなく、無数の葉から太陽光をできるだけ多く受け取れるように枝葉を複雑微妙に広げる。とくに梅雨どきの植物たちはそんな強い生命力を感じるのである。
近頃私のところにかかってくる電話相談の主は、あまりにも職業や住む場所について覚悟のない若者が多い。あると信じた個性で通用する職業や場所を求め、さまよい歩いているのである。
四季にそれなりの姿で順応している植物を見れば、我々にもかなり適応力はあるだろうと思う。覚悟こそが適応力の母なのだ。 |
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