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  ●本との出会いは不思議なものである。その再会には未知なる愉しさがある。 |
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vol.6(2007.09.5) |
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『実践!「元気禅」のすすめ』(宝島文庫)

これは、「楽で元気に生きる」という『禅的生活』の実践方法の本なのである。
初めて共著という形で本を作ることになった。お相手は、道場の先輩であり、また漢方医学を修めて実践的な健康道場を今もお寺でなさっている京都の薬師寺さん、樺島勝徳氏である。
薬師寺というと、たいていは奈良の、あの大きなお寺をイメージされると思う。ところがどっこい、こちらの薬師寺はいたって小さい。本堂にしてからが、なんと自分で作ってしまったという代物、床には小学校の古い机の上板が並べてある。
しかし小さいことを侮ってはいけない。
人生、きっと小さいことが大事なのである。
薬師寺さんに行くと、梯子地蔵というおお地蔵さんが祀ってある。ここにお参りして手作りの小さな梯子を奉納すると、なんとオネショが治ってしまうというから凄い。
オネショなんて、また小さいことじゃないかとお思いの方もあるだろうが、小さな子どもにとって、治らないオネショほど切実で大きな問題もないだろう。私は自分の経験から、実感としてそう思うのである。
この、一見小さいと見えることが、人生を左右する。
オネショも、からだのちょっとした歪みも、眠りが浅いことも、たいしたことではないと思っているかもしれないが、これが積もり積もると巨大な問題になるのである。
ささいで、日常的なことを大事にする、というのが禅である。
この本は、私の小著『禅的生活』(ちくま新書)の実践版だと思っていただきたい。あの本で、私はさんざん日常生活の心構えの重要さを書いたのだが、「じゃあ実際にはどうしたらいいの?」という要請で実践版を作ることになった。
歩く、食べる、坐る、眠るなど、人間にとって不可欠な行為の在り方をはじめ、現代病と言われる花粉症やアトピーの対策、そして健康の基本とも言うべき自然治癒力をUPする実際的な方法にも触れることにした。簡単に云ってしまえば、「楽で元気に生きる」という「禅的生活」の実践方法の本なのである。
それには、私だけでは力不足。長く現場で実践してこられた先輩の智慧と文章のお力添えをいただくことになった次第。
この本は、イラストもたくさんあるから、少し読んでは横の置き、実際に真似していただくようになっている。心構えと実践と、両方マスターしてしまおうという贅沢な本なのである。
心構えとからだの構え方、そして心とからだの適切な使い方をマスターし、健康で明るく生活してほしいと思う。町で擦れ違うだけの人でさえ、上機嫌で健康なほうがいい。心とからだの使い方が正しくない不機嫌で不健康な人は、じつは存在じたいが社会の迷惑なのである。
この本に書かれていることをマスターするのは、だから小さいことのようだが、じつはものすごく大きなことなのだと思う。
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vol.5(2007.07.27) |
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『中陰の花』(文春文庫)


自らの最期を予言した「おがみや」ウメさん。
その死をきっかけに僧侶・則道は、中陰という“この世とあの世の中間”を受け入れていく
自ら予言した日に幽界へ旅立った、おがみや・ウメさん。僧侶・則道は、その死をきっかけにこの世とあの世の中間=中陰の世界を受け入れ、夫婦の関係をも改めて見つめ直していく 現役僧侶でもある著者が、生と死を独特の視点から描いて選考委員全員の支持を集めた、第125回芥川賞受賞作。「朝顔の音」併録。
解説・河合隼雄
〜現代に生きる仏教を、文学作品を通じて語るという試みは素晴らしいし、この作品はそれに成功している。この作家の今後の作品が楽しみである。(解説より)
■おすすめの1冊:こころの処方箋 (新潮文庫) |

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vol.4(2007.06.15) |
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『慈悲をめぐる心象スケッチ』(講談社)


小説でもなく、エッセイでもない。新しいスタイルで宮澤賢治と対座する。
慈悲は本来、行動の規範ではなかった。
怒りとは不思議なものだ。仏教では「瞋」と表されるが、誰にでもある煩悩の代表格である。おそらく、怒ったことのない人は、此の世に存在しないだろう。しかし、そのような人間のためにこそ、慈悲があるのではないか。自らの怒りが包み込まれる大海のような場としての慈悲。それを、賢治は『法華経』への信仰に見出したのだろう。 <本文より>
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檻の中の篝火 まえがき
文学者としてはともかく、宗教者としての賢治は必ずしも成功したとは言い切れない人生を歩んだ。いや、彼自身はおそらくその両者を含めて彼の宗教生活だと思っていただろうから、総合すればそれは挫折という名の夭折であったのかもしれない。しかしイエス・キリストを想えば明らかなように、強い思いが伝わりつづけるためには必ずしも人生的成功が必要なわけではない。
どうしたことか、少年だった私の心に、賢治はいつのまにか棲みついてしまった気がする。自分でもよく分からないが、宗教と文学とを分かちがたく感じる自分の感性の底には、もしかすると賢治がいるのかもしれないと、ある日気づいたのである。
しかし以前にもある文章に書いたように、「宮澤賢治について論じるなんて、猛獣の何匹もいる檻のなかに入っていくようなものかもしれない」。
賢治の幅広さのせいで、その作品はじつにいろんな人の共感を呼び起こし、彼らはみな熱をおびて自説を主張するから、その意見の食い違いから猛獣の檻のような怖ろしい雰囲気になるのである。
それぞれ真摯に賢治に向き合っての思いなのだから、なにも争うこともなかろうにと思う。しかしどうも賢治には、「賢治教」という宗教の教祖のように、信者に熱をおびさせる力が具わっているようなのである。たぶん宗教に派閥ができるのも、最も根源的な理由はそういうことだろう。
そろそろどうしても檻の中に入っていかなくてはなるまい。しかし噛みつかれたくはない。そこで私は、森の中で猛獣よけに篝火をたく旅人のように、「慈悲」という燈明をかざすことに決めた。
慈悲こそ賢治が終生追い求めたものであったろうし、その名のもとには、人も争いも避けるだろうと考えたのである。
結果はどうなったか分からない。ただ私は、賢治がそうしたように、『法華経』という原典にできるだけ当たることを心がけた。賢治の作品も信仰生活も、そこから滲みでてくるエキスだと誰もが考えるだろうに、そういった論評をあまり見かけたことがなかったからである。
しかしここに示したのは、あくまでも論評ではなく「心象スケッチ」である。宗教と文学とを分かちがたく暮らす今の私の心象スケッチが、賢治の広大なスケッチの一部にでも重なってくれれば嬉しい。森の奥に光る篝火が、少なくとも賢治が見たものと同じであることを、今は念ずるだけである。 |
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vol.3(2007.04.26) |
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『釈迦に説法』(新潮新書)


一つの人生観に縛られていませんか? 目標や希望の実現に向けて「頑張る」ことに囚われすぎていませんか? 苦悩した青春時代、禅僧を目指した修行時代、禅僧と作家の二束の草鞋で歩む現在――。幾多の経験を通して、身の回りの出来事や、世間を騒がせた事件に触れながら、息苦しい世の中を、「楽」に「安心」して生きていくきっかけを教えてくれる。一話一話、読むほどに、心が少しずつ軽くなっていく。
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シャカリキ あとがきにかえて
「自」然の「分」身が「自分」だということは、あちこちで書いたような気がする。だとすれば、自然を理解することがとりもなおさず自分を解ることに繋がるわけだが、これがどうにも難しい。
難しい理由を考えてみると、自然も自分も、解ったり理解するという方法に似合わない在り方をしているからだと気づく。それは仏教用語で云えば「諸行無常」ということだし、道教的に云えば太極図に象徴されるように陰陽が渦巻き、エネルギーを産みだす現場が、どんなに小さなスケールにおいても存在するということだ。つまり自然も我々も、その本質は流動しつづける命そのものであり、理解しようと思って手を近づけても指先から漏れでて掴めない。それはまるで素粒子が、どんな倍率の顕微鏡でも光を当てると動いてしまうから見えないことに似ている。
そのことを、『般若経』は「空」と表現した。
しかし我々人間の脳は、感じることはできても理解できない自然に対し、その全体を分断し、流れを掬い上げたりストップさせても、なんとか理解したいと思うらしい。自然のままではないのだと知りつつも、標本みたいに張りつけ、殆んど流動しなくなった自然の残骸を手がかりに、自然を理解しようとしてきた。その手がかりである自然の残骸のことを「色」と呼ぶのである。
つまり「色即是空」とは、我々が認識したあらゆる現象としての「色」が、残骸にすぎないという教えなのだ。むろんその対象は、自然でもあるし自分でもある。自分のなかに湧き起こる感情や判断さえ、すでに残骸だというのである。
ならばどうして我々はぞんな残骸をつかむことを止めないのか。
それはおそらく、幼児の頃にもっていた自然との一体化能力を失い、その代わりに「理解できる」脳機能を授かってしまったからだ。しかし理解というのは、まるで自然という流動体に刃物を向けて切り取ろうとするようなものだ。刃物に付着した滴から流れそのものを推測するように無力なのだ。だから我々は、トンチンカンな考えばかりもつのだし、いわゆる煩悩というのも、主に自然を誤解することから起こる。
自然は解釈を必要としてはいないし、本来それは不可能なことだ。そうなると自分もそうだ、という理屈になるが、だからといってそれが止められないのが人間なのだから仕方がない。
自然を写そうとした幾何学はユークリッドにモデルからフラクタル幾何学に進んだし、ニュートン力学では説明できないミクロ世界については量子力学が、マクロ世界については相対性理論がより自然に近い描写を可能にした。
自分という自然についてもそうだろう。簡単に図式化することはできないが、たとえば我々の心について云うなら、フロイトの考えた潜在意識では説明できないもっと奥深い心理を描写するためにユングは集合的無意識を称えたのだし、ユング派のミンデルなどは昏睡状態にも存在する自分というものにアプローチを続けている。
しかし肝腎なのは、自然に近い描写を実現しようとしてなされるそうした知の推進も、結局はどこまで行っても流動そのものを写すことはできないということだ。いやむしろ、分析や理解が自然に近づいてきただけに、自分が自然に近づいてきたと錯覚されるのが怖い。
初めにも申し上げたが、自然は理解という方法では到底つかめない在り方をしているわけだから、分析や理解では初めから近づきようもないのである。
ならばどうすればいいのか、ということになるが、とても参考になるのが中国の『易』の考え方だ。
陰陽が合してエネルギーを産みだし、絶えざる流動もそこから起こるとさっきも申し上げたが、人間の脳機能についても中国人は陰陽を想定しているのである。
陰は動かず、包み込む根源性。陽は動き、枝分かれする力だが、そう言われれば、自ずと我々の理知が枝分かれのほうだという見当はつくだろう。我々は思考を逞しくしてどんどん細い枝まで登りつめようとしているのだ。確かに花は枝先に咲く。
しかし根本が充実していなくては枝葉も枯れてしまう。その根本の、吸い上げ、包み込むほうの働きとは何なのか。
それが瞑想であることは間違いない。瞑想こそ自分が自然に戻っていくというやり方だし、そこではあらゆる分析も理解もなされないかわり、自然の全体が直接に感受される。そこで発想する力こそ「慈悲」なのだと思う。
お釈迦さまがシャカリキにおっしゃたのも、そのことだった。
宇宙の始まりや人間の死後に関する弟子たちの問いに、無記としてお答えにならなかったのも、そこに理知的な輪郭を与えることがけっして弟子のためにならないこと、ご存じだったからだろう。物事に始まりと終わりを想定するのも、じつは理知のクセ。本来、自然という流動しつづける命には、始まりも終わりもないのである。
こうして最後まで本書を読んでくださった皆さんに、私はいったい何ということを申し上げているのだろう。煎じ詰めれば、理知のゴンゲのような新書というものを読むだけでは、ハッピーになれないということではないか。
そう、残念ながら、私は全くそう思うのである。
書を捨てて町へ出よう、と書いた詩人がいたが、私は最後に申し上げたい。
町に出るのもいいけれど、書を捨てることはないけれど、ともかく瞑想しよう。それこそが究極の「釈迦の説法」。釈迦力の内容なのだ。
「釈迦に説法」よりも、はるかに大事なのである。
ところでこの本のとりまとめでは、新潮新書編集部の内田浩平さんにとてもお世話になった。「まえがき」に登場いただいたヒゲの編集者だが、じつは彼、このところ一年以上、私の寺の坐禅会にわざわざ東京から自費でやってきて参加しているのである。
彼がかなりの物好きであることは確かだが、おそらくそれだけではなく、酒好き、いや、そうではなくて、シャカリキに気づいてしまったのではないだろうか。
まるで彼の坐相のように骨太で男っぽい本になったことを彼に感謝すると共に、やはり最後に、お釈迦さまにもあらためて感謝しておきたい。南無釈迦牟尼仏。
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vol.2(2007.04.14) |
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『死んだらどうなるの?』(ちくまプリマー新書)


「あの世」はどういうところか。「魂」は本当にあるのだろうか。宗教的な観点をはじめ、科学的な味方も踏まえて、死とは何かをまっすぐに語りかけてくる一冊。
見たことのない世界は分からないままでおいておいた方が、風流じゃないか。しかし、そこをわかろうとする意識が「現在を生きる」ということについて、何らかの道筋をもたらし、明確にしていくのではないかと思う。 |
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確かめないでね
唐突だが、これでおしまいである。
言い訳めくが、ページ数に制限があるのだから仕方がない。
ただ最後にどうしても申し上げておきたいことがある。それは「死んだらどうなるの?」というこの本に満足できなかったからといって、自分で確かめようなんて思わないでほしいということである。
むろんもうすぐ死にそうだ、というならそれはお任せする。
然し自殺してまで確かめるのだけはやめてほしい。
なにも私は、自殺は倫理的によくないとか、そんなことを言おうとしているわけじゃない。そんなこと言ったら、東北地方によく見られる僧侶たちのミイラはどうなんだ、即身成仏は自殺じゃないのかと責められるだろう。そう問い詰められれば私だってグーの音もでない。だいたいお釈迦さまのサンガにだって自殺者はいたし、お釈迦さまはそれらの人を罰しようとはされなかった。
何度か申し上げたように、人間は蓄積された意識の諸傾向のうえに「できごと」としてモノを見る。死ぬ瞬間も、意識は変成しているとしてもおそらくそういうことだろう。だからこそ浄土教はその瞬間の意識の在り方をとても大切に考えたのだと思う。蓄積された意識を、その瞬間に向けて済ませていこうとしたのである。
私は、自殺するのはもったいないだろうと言いたいのだ。命がもったいないというより、自然に死に行く体験が、である。
おそらく、自ら死のうというその瞬間の強い思いは、「その後」の体験を大きく染め上げるような気がする。自殺したら成仏できないのかどうか、それはわからない。しかし自然に「もみじ」になるのを待たずにそうして青葉のうちに散ろうとすると、「根源的な意味の連続体」があるとすれば、それは強烈に色づけされるように思えるのだ。あくまで推測だが、豊かであるべき死の体験が、まったく別物になってしまうのではないかと危惧するのである。
むろん、なにが自然なのかは判らない。病院で受ける点滴で、ほとんどの人は溺死するのだとおっしゃる方もいる。また未明の疼痛緩和で意識レベルを下げられるのは、緩慢な安楽死じゃないか、という立場もある。
しかし、そんなとき、あるいは交通事故や突然死の場合だって、人の精神が自殺者のように不自然に色づくことはないだろうと思う。その違いは、そのまま死の体験の違いになるような気がするのである。
さきほど安楽死や尊厳死のところでも述べたことだが、いわゆる大脳皮質が作りあげるアイデンティティーをあまり信用しないほうがいい。ワケが解らないほどに嫌なころが続き、八方ふさがりだと感じているあなたの自己意識は、今は死にたいと思っているかもしれない。しかし大事なことは、その自己意識は百八十度かわることがある、ということだ。その意味では、長い目で自己意識を信用しておくということだろうか。
信用するのしないのとややこしいが、もっと言えば「根源的な意識の連続体」が浄化され、やがて信じられないくらい楽しい時間がくることを信じて欲しいのである。
むろんもっと表面的な意味でも、人の考え方や生き方は変わる。タヌキや犬や猫にはそれができない。柴犬系の雑種だったナムも、ついぞ生き方を変えることなく十七年の生を終えた。しかし、あなたは今のままずっと生きつづけていくわけではないのである。
いわば荘子の「物化」を楽しみ、それぞれの時を独立した夢と思いなし、次の夢を待ちながら今に没頭していくということだろうか。
そんな気分にはなれない、というのだろうが、大丈夫、夢から醒めるように、ほどなく今の夢は現実だった、と思える次の現実がやってくるはずである。
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vol.1(2007.02.25) |
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『禅的生活』(ちくま新書)


「禅」の入門書とは云え、その内容は奥が深い。
まずは頭で分かろうとはせずに、こころで読むこと。案外すんなり入ってくるかもしれない。
悩みや苦しみはもしかしたら自分が勝手に生みだしているかもしれない。しかし、悩み抜いてほんとうの自分に出遭った時はこの上ない悦びになるはずである。
まずは「はじめに」から読んでみる……、こころがちょっぴり楽になるかもしれない。 |
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生きにくい世の中だと、多くの人が言う。
五年まえから三万人を超し、やや減少傾向にあった自殺者も、今年また微増に転じた。
なぜ自殺するのか、それは簡単には言えないだろう。
私に言えるのは、今の私が、なぜ生きるのが楽なのか、ということだけだ。もしかするとそれは年齢のせいかもしれないが、私としては「禅」のお陰だと思っている。
もっと早く「禅」を深く体験していれば、と思ったこともある。青春時代には二度と戻りたくないが、もしもあの頃、禅を深く体験していたら……。ときどきそう思ったものだ。
しかしそうだったとしたら、私はきっと小説を書きはしなかっただろう。そして今も、あらためて禅のことを書こうと思うほどには、思い入れも深まらなかったかもしれない。
そうなのだ。今あらためて考えると、自分の過去のすべてが、この本を書くためにあったと思える。
そしてそんなふうに思えることこそ、これまた「禅」のお陰なのだ。
なんだかいきなり堂々巡りになりそうだ。
正直に申しあげると、この「はじめに」は本文を書き終えてから書いている。そして思うのは、この本を書いていたら暗い青春時代の辛さや苦しさの構造が見えてきて、なんだか書きながら治療をするような気分になっていたということだ。
むろん誰にでも効く治療法などないだろう。
しかし少しは、禅僧が元気な理由も解っていただけるように書けた気がする。
少しでも、一人でも多くの人に楽で元気になってほしいのである。
ところで禅僧というのは、楽で元気なばかりでなく、かなり困った人々でもある。この本で私は、「禅語」と呼ばれる言葉を紹介しながら「禅的生活」のアウトラインを描いたつもりだが、そこに登場する言葉の出典はむちゃくちゃ多様なのである。禅僧はむろん自ら詩を作ったり文章を書いたりもするのだが、そのほかに古今の文献や詩人の詩などから非常に恣意的に引用することがあり、それも「禅語」と呼ばれている。いわば盗用がじつにうまいのだ。しかも盗用したもののほうが原典の意味より有名になったりすることもあるから、禅僧というのは学問的にはとても困った人々なのかもしれない。
かく言う私も禅僧のハシクレだから、学問ではない方向に走りがちだと思う。しかもハシクレ程度の禅僧だから、ときにはあらぬ方向に走ることもあるのではないだろうか。拙僧の話は無節操になるやもしれぬことを、まずお断りしておきたい。
どだい大事なのは学問なのではない、と開き直っている感もあるが、では何が大事なのかはこれからじっくり感じとっていただくしかない。さまざまな禅語を通じて禅の世界観を味わい、日常生活に具体的な変化を生みだしていただくのが本書の狙いである。
迷いや辛さがすこしでも減り、楽になっていただけたら嬉しい。
二〇〇三年夏、お盆まえ
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