悩み解決のトライアスロン
あかせがわげんぺい
赤瀬川原平
(作家)

 このタイトルがいいですね。お坊さんだって悩んでいる。それはそうだろう。人間だから。とは思っていても、ふつうは表立ってテーマにはしない問題である。
 つまり表立っては、お坊さんはもう悩まないと思われているのだ。出家して、いろいろと大変な修行を積んで、その末にもう悩んだりはしない存在となっているのがお坊さんだと思われている。一般の人々は、そういう超人的なものをお坊さんに期待しているのではないか。ぼく自身もどことなくそう思っているふしがある。だからこそこのタイトルにあらわれた告白的なニュアンスに、引きつけられる。
 この本は寺院関係の専門誌に連載されていた人生相談をまとめたものだ。お坊さんにも人生相談があるんだ。いや人生相談というより職業相談というか、思想相談というか、あるいは技術相談といいますか、お寺の専門誌内での相談なので、事がすべて恰好をつけずに具体的で、じつに面白い。読みやすい。
 本当は迷わないはずだと思われている人が、じつは陰では迷っている、ということが実感できて、それでぐっと距離感が縮まり、読みやすくなる。これは文章の効用ということに関して、重要なことだ。
 昔みた西部劇の映画を想い出した。たしか「ワーロック」というもので、主演はヘンリー・フォンダ。早撃ちの名人といわれる保安官で、新しい町に来てもみんなに注目されている。その名人が用事のないとき、町外れの岩陰で、早撃ちの練習をしているところがちらっと出てくる。え? 名人も練習するのか……、と思って妙に感じ入ったのを覚えている。名人はもう出来上がった人と思っていたけど、やはり人間なんだ。
 話がそれたが、お坊さんも人間だからというのは、じつは複雑系をあらわす言葉で、このお坊さん相談はたんに正しい定理を説くだけではなくて、その人間社会の複雑系に自分も分け入って、自分も迷うことでいちばんいい道を探ろうとしている。仏門での伝統的な定理も、一般世間での世俗的な感情も、すべて受入れたところで、納得できる道のありかを、一つではなく複数考えようとしている。そこがやはりお坊さんの人生相談ならではのもので、絶えず動いている世の中でのお坊さん、という位置を実感できるのだ。
 住職の跡取り息子が茶髪で、どう諫めるべきか? という質問。檀家の目もあり、寺の世間体、息子の将来の信用も考えてハラハラ、「そう考えて、父親の住職として、息子の茶髪を諫めるのは、いけないことでしょうか」という質問への回答。「いけないことでしょうか、と訊かれても、困りますねぇ。少なくとも、そんなふうに自信のない方には、誰だって諫められたくはないでしょう」という言葉から、言葉というのはたんに記号ではなく、迫力なんだと納得をする。とくに諫めるというようなことの場合、体ごと発したものでないと、意味だけいくら正しくても本人には届かない。
 サッカー
Wカップの、日本チームのシュートを思い出した。ボールの動きがどことなく、意味は正しくても自信に欠けるというか、迫力が細いというか。
 もう一つ、お布施というのは金銭でもあるために、俗世間の論理の逆流もあって、やはりお坊さんにも解釈上の悩みがあるらしい。そのお布施についての著者の解釈。お布施は「要は風のように入って出ていくだけで、我々はその向きを少しだけ変えられるということです。それは我々が社会に対してできる、最も大きな仕事ではないでしょうか」というのがさらに進んで「じつは布施という純粋な贈与がなければ、自然も体も成り立ちません。天は大地に雨を布施し、大地は作物に栄養を布施し、農作物は人間に我が身を布施している。また体のなかでも、骨髄で作られた血液は心臓をとおって全身に布施され、肝臓は胆汁を布施し、肺もきれいな酸素を布施しています。全身これ布施する集合体なのです」という布施宇宙論はすごい。
 この本の読みやすさは、テーマが卑近で、しかもその解釈が仏教用語を使わずに科学的で、一つの論理へのこだわりの見えないところ。たてまえの上で宗教家がよけて通るようなものにも、あっさり近づいて触わってみるし、じっさいに著者自身若いころは生家の僧職に反抗し、家を出てあれこれの軟派硬派の職業を渡り歩き、新興宗教にもあちこち入門を繰り返してきたようで、それらを全部飲み込んだ上でいまの僧職の位置にいる。この人生相談の喉ごしのよさも、それらを消化する内臓の強さから出たものだろう。
 オリンピックの五種競技、あるいはトライアスロンを思い出した。一つの競技だけでなく、多種の競技の連続で競う。昔は鉄人レ−スとも呼ばれていた。その展開をあれこれと見ているようで、また次の相談も読みたくなった。

「本の話」2006年8月号(文藝春秋)