Medical Essays
読経が聞こえる研究室

有田秀穂

 私の研究室の風景をスケッチしてみよう。統合生理学の表札のある扉を開けると、広い集会室があって、壁には風神と雷神、そして古今和歌集の風呂敷が張りつけてある。上野の国立博物館の土産物売場で買ったものである。廊下を奥に進むと、右側に実験室、左側に居室が連なっていて、どこにでもある研究室の風景がある。その集会室に面してヒューマン・ラボがあり、ここから月に数回の割合いで、読経の声が漏れてくる。別に、中で実験動物の供養をしているわけではない。読経だけでなく、声明や御詠歌などメロディーのあるものも聞こえてくることがある。それは能の地謡にも似ていい音色である。集会室に研究者が集まって聞き入っている場合もある。
 ヒュ−マン・ラボの中では、正装の禅僧が、坊主頭に脳波用の電極は取りつけられ、腹部には筋電用電極が装着され、腕には採血用の静脈が確保されて、一畳足らずのシールドルームに正座し、お経を唱えている。机代わりの段ボールの上には経典と高価な鳴り物が置かれてある。私たちは経典のコピーを片手に装置を操り、記録紙に鉛筆を走らせる。最近、購入したばかりの局所脳血流測定装置も利用されることがある。
 隣の動物実験室では、自閉症モデルラットが脳内にマイクロダイアリス電極を挿入されて、強制遊泳の実験をしていたりする。二つの研究の共通点は、セロトニン神経である。私たちは、セロトニン神経の働きを、坐禅や読経、鎮痛作用、各種の精神疾患の病態、歌唱やフラダンスなどと関連づけて研究中である。
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 読経研究の始まりは、二年前にNHK出版から『セロトニン欠乏脳―キレる脳・鬱の脳をきたえ直す』を出したことにある。この本の発売当初からマスコミ取材が続いているが、発売二ヶ月の頃にNHKテレビの『生活ほっとモーニング』で「気分スッキリ! 坐禅に学ぶ呼吸法」という番組が企画され、私たちの坐禅研究が紹介された。放送翌日に、一人のお坊さんが研究室を訪ねてきた。松本和尚である。年は六十歳くらいで、山高帽をかぶり、海外旅行から帰ってきたばかりのような服装で現れた。帽子を取ると、間違いなくお坊さんであることがわかる。私は「坐禅のセロトニン仮説」を説明し、松本和尚はご自分の体験と仏法を語り、いつしか意気投合していた。一ヶ月後には和尚が第一番目の被験者として、例のヒューマン・ラボで読経をしてくれていたのである。
 それから松本和尚は次から次に、友人、知人のお坊さんを紹介してくださる。宗派を問わず、曹洞宗、臨済宗、法華宗、浄土宗などのお坊さんが来られた。ありがたいことに東京近辺だけではなく、伊豆、浜松、長野、山梨など遠方から、上京の途中に立ち寄ってくださる場合もあった。お坊さんによっては自らを「モルモット」と称して、平然とまな板の鯉になってくださる。それも無料である。まともにお金を払うと、とても払いきれないような人々が含まれていた。名のある漫画家でもある住職、駒沢大学の教授で住職、あるNPOの理事長で元僧侶、在家の信者で年収何十億円の会社の社長、などなど多彩であった。
 私は、出来立てのホヤホヤの生データを集会室の机に広げて、自説を展開し、お坊さんからさまざまな体験報告を聞かせていただいた。縁遠かったお坊さんの世界が少しずつ見えてくるとともに、遠い存在のお坊さんんに親しみを感じるようになった。実験後、病院のレストランで夕食をご一緒させていただきながら、いろいろな話題に花を咲かせるのも楽しみの一つであった。研究室に籠もって動物実験に明け暮れていたそれまでの私の研究生活が、読経研究を契機に激変してしまったのである。
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 私の「坐禅のセロトニン仮説」は、今から一三年前にフランスのマルセイユで着想されたものだ。当時、私は新設の筑波大学の基礎医学教室で睡眠時無呼吸の研究を行っていた。レム睡眠時には健常者でも短期間(五秒以下)の無呼吸が発生することが知られていたので、それをネコの脳幹の呼吸性ニューロンで研究したのである。この研究を通じて、私はセロトニン神経に初めて出会った。
 セロトニン神経は覚醒時に持続的な活動をし、レム睡眠時には完全な活動停止になる特徴がある。いわば覚醒を演出する神経なのだ。その機能がレム睡眠時に消失することが、無呼吸につながると結論した。これを国際誌(平成四年の本誌にも「呼吸と睡眠」と題して一部掲載させてもらっている)に発表したら、、マルセイユの国際シンポジウムに招待された。
 私は呼吸に関しては、臨床も含めて長く研究してきたので、それなりの自信を持っていたが、セロトニン神経については当時まったくの素人であった。会議出席を前に、セロトニン関連のさまざまな論文を読み漁った。しかし、読めば読むほど、セロトニン神経の役割が混沌としてきた。覚醒だけではなく、痛みなどの感覚抑制、運動ニューロンの促通効果、そして、うつ病などのメンタル面など、非常に多彩な機能に関わっているようではあるが、統一して理解できる概念がない。
 このような疑問と不安を抱きながらフランスに旅立った。飛行機の中、パリからマルセイユの汽車の中、ぼんやりと考え続けていた。地中海を望むホテルに到着した時に、「坐禅だ!」という閃きがあった。溢れ出る構想をホテルの便箋に書き殴った。それを日本に持ち帰り、坐禅の文献を手当たり次第に調査して、「坐禅のセロトニン仮説」としてまとめあげたのである。
 坐禅の効能には、すっきり爽快の覚醒レベル、「心頭を滅却すれば火もまた涼しい」といわれる鎮痛効果、お坊さんのシャキッとした姿勢、そして平常心など、さまざまなものが体験的に知られている。それらがセロトニン神経の生理的機能とよく対応するのである。それだけではなく、坐禅の「無」の境地や、道元の「只管打坐」の仏法、精進料理の中身なども、セロトニン神経の特異性によって説明可能なのである。その詳細はここでは省略するが、興味のある方は前記の本を参照していただきたい。
 自分では大変に興奮する仮説が出来上がっても、あの頃はオウム真理教の事件もあり、また、私自身、その仮説に研究生命を賭けるほど贅沢な環境ではなかった。主任教授になって、研究室を立ち上げる条件が整った時に、若手研究者を募って仮説の検証作業を開始したのである。並行して本の出版を準備し、今日の様変わりが実現したのである。
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 それまで私の論文は、科学・医学関連の雑誌以外に掲載されることはなかったが、仏教関係の方面からも執筆依頼が来るようになった。昨年の住職の月刊誌「寺門興隆」には、「仏道で証明できる脳内物質活性化の新発見―坐禅や読経が弱った脳や心を元気にする」(注:この表題は編集者がつくったもの)が連載されたりもした。朝日カルチャーセンターで、お坊さんと二人で講座を担当したこともある。最近は坐禅やヨガがブームになりつつあって、いくつも本が出版され、雑誌の特集も多数企画されて、それらの取材が後を絶たない。
 仏教や哲学の世界は、サイエンスとは縁遠い世界と位置づけられてきたが、意外と両者は並立あるいは融合しうると実感できるようになってきた。そのような状況で、玄侑宗久さんや板橋興宗禅師との出会いがあった。
 芥川賞作家(『中陰の花』で受賞)であり禅僧である玄侑宗久さんと対談する機会が昨年の夏にあり、『禅と脳―「禅的生活」が脳と身体にいい理由』(大和書房、二〇〇五年)として出版されている。対談の中で、脳内のドーパミン神経(快情動の形成)は江戸の町に喩えれば吉原、ノルアドレナリン神経(ストレス関連で脳内危機管理センターのような役目)は番所、そしてセロトニン神経はお寺だろうということになった。文学とサイエンスが共鳴した瞬間に生まれた喩えである。
 禅僧である玄侑さんは、現代はサイエンス教の時代だとおっしゃる。そして、自らの禅体験をサイエンスの言葉で解釈することに違和感も抵抗も抱かれていない印象を受けた。むしろ積極的にやられているといったほうがよいだろう。だからといって、サイエンスですべてが説明できるという立場ではなく、説明できないことこそおもしろいとおっしゃられる。
 実は私も釈迦のことを勉強するようになって、サイエンスと仏教の関係について、考え方が変わってきた。まず第一に、釈迦は大変な実験家であると素直に思える。いわゆる荒行、修行を通じて、釈迦は徹底的に自己の身体と心を調べ尽くしたといえる。荒行の内容を見ると、並大抵のストレス実験ではない。あらゆる種類のストレス反応を自分の身体と心で調べきっている(ノルアドレナリン神経の検証だろう)。その上で、最終的には釈迦は荒行を捨てて、坐禅の世界(セロトニン神経の世界)に到達するのである。荒行の前には、王子として裕福で自由奔放な世界(ドーパミン神経の世界)に浸っていたわけで、人間の営みのあらゆる側面を体験を通じて知り尽くしていたものと想像される。
 釈迦の教えが時代を超え、国を越えて広まるには、釈迦のこのような実体験に裏づけられた実証があったからと思われる。今日サイエンスが説得力を持っている理由は、データの客観性と再現性にある。坐禅の場合には、個人的な体験をベースにするので、客観性という点では問題があるかもしれない。ところが、再現性の点では、二五〇〇年以上の検証があり、検証者の数の点でも計り知れないものがある。サイエンスのデータの中には時代の検証に耐えないものも多数あることを考えると、釈迦の教えは十分に検証に耐えてきたわけで、その意味では間違いなく真理である。私はそれをサイエンスの言葉(セロトニン神経)で説明し直しているだけなのであろう。そのほうが現代人にはわかりやすいのも事実である。
 ドイツの哲学者ニーチェは、「お釈迦さまは偉大な生理学者であり、その教えは衛生学だ」と語っているそうであるが、上記の考えと通じるものがある。この一文は、曹洞宗管長であった板橋興宗禅師の著書(『混沌に息づく―禅の極意』、春秋社、二〇〇四年)の中に出てくる。板橋禅師からは半年前にその著書を献本された。理由は、私の仮説を著書の中で引用してくださっているからであった。曹洞宗の頂点に立たれたお坊さんが、私の坐禅仮説を評価してくださった。大変にありがたい気持ちでいっぱいである。
 その板橋禅師は、「宗教は自然(自燃:じねん)である」とおっしゃられる。「宗」とは宇宙の根本原理、おおもとの筋道であり、「教」は教示したもの、明確に説明したもの、と説明される。宗教は観念の世界ではなく、むしろ自然科学やサイエンスと同じ方向を向いているように思われる。違いは、サイエンスは「自然」を装置を使って観察するのに対して、宗教は「自然」を自らの体験を通じて会得することであろう。サイエンスは二一世紀になって心の世界に踏み込みつつある。心の世界は、これまでのような動物実験による観察では限界がある。どうしても、人間自身による「体験」が不可分に結びついてくる。心のサイエンスの向かうべき道は、宗教の世界との融合、あるいは二人三脚なのではないだろうかと最近考えるようになった。
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 私の研究は、セロトニン神経の活性化あるいは光の部分に焦点が当てられているが、セロトニン神経の陰の部分が、最近、世間では脚光を浴びるようになっている(その一端は私も担っているかもしれない)。その発端は、約二〇年前にプロザックが欧米で発売されて、爆発的に売れたことにある。うつ病の治療薬としてのSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)が広く使われるようになって、脳内神経活性物質のセロトニンが、うつ病だけでなく、パニック障害や摂食障害、さらには慢性疲労症候群の病態と関連することが判明しつつある。
 坐禅や読経は、セロトニン神経の働きを人並み以上に鍛えることにつながるが、それがちょうど逆に、セロトニン神経の弱った状態が、うつ病、パニック障害、摂食障害、慢性疲労症候群である。朝起きても覚醒レベルが上がらず、不定愁訴的に痛みを訴え、姿勢が悪く弱々しく、メンタル面ではバランスが保てない。これらの症状は、セロトニン神経が活性化されたお坊さんの状態とちょうど正反対の心身の状況、すなわちセロトニン神経が弱った状態である。
 問題は、なぜ今セロトニン神経が弱った人々が急増してきたかである。そこには現代生活の落とし穴が潜んでいる。パソコンが普及し、現代生活はあらゆる面でIT化が進み、便利で快適になった。身体を動かさないで快適な環境で生活できるようになった。ところが、この生活がセロトニン神経にとっては最悪なのである。セロトニン神経の活性化要因は適度なリズム運動の継続である。歩行、咀嚼、呼吸などのリズム運動がセロトニン神経を活性化するのである。ところが、現代生活はパソコンの前にジーッと坐り、指だけを動かして、仕事も遊び(ゲーム)も行われる。身体を動かさない生活がセロトニン神経を徐々に弱らせ、それが心身の健康を損なう状況を作ってきている。
 私は、セロトニン神経の研究を通じて、このような現代生活の問題点に気づくようになった。その警鐘を社会に向けて発信したのが前述の著書『セロトニン欠乏脳』である。基礎医学をやる医師として、少しでも人々の健康に役立てればという願いで書いたものである。そして、この本が期せずして「読経の聞こえる研究室」をもたらしたのである。

日本醫事新報No.4257/11月26日号