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りっぷしゅう
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人間の感覚に捉えられる六つの対象を色・声・香・味・触・法の「六境」という。捉えれれた結果が、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の「六識」である。
「六不収」とは、中国の雲門和尚に、ある僧が「法身とはどんなものか」と訊ねたときの答えで「六識には収まりきれないもんじゃ」という意味になる。眼にも見えず、耳にも聞こえず、匂いもせず、味わうこともできず、触れられず、しかも意識さえできないということだろう。つまり感覚器や意識では「法身」は捉えられない。我々は感覚器を通してさまざまな情報を入力し、瞬時に価値判断をしたり好き嫌いを感じる生き物であるが、そうした抜きがたい妄想を拭い去ったところ、いやそれらが生ずるまえのところに目指す「六不収」はあると云える。 |
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ふどうしん
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「不動心」といわれると当然動かないことを想像されるだろうが、動かない心ほど不自由なものはない。一つに絞り込み、そこに全てを投入していく。一つに絞るからこそ、自己の全てが現前していくということである。
「無心」が軸になっていればどんな現実に対応しても車軸がズレないように「不動」だということである。自由に転ずるからこそ幽なのである。「無心」がすなわち「不動」なのである。 |
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しかいみなちゃじん
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一椀の茶を喫することで心が穏やかになり、四海みな同胞と感じられ、誰もが茶人とも思える。茶人とは何か。和敬静寂を思うべきだろう。
要は虚心に、音や香り色を閑かに味わい、その今に生きる自分を楽しんでいただきたい。 |
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しんげむべつほう
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恵心僧都(源心)の『自行略記』や鈴木正三の『盲安杖』などに出てくる。「三界唯一心 心外無別法」(「三界は唯一心にして心外に別法無し」)に拠るが、本来は『華厳経』の思想を表現したものと云えるだろう。同様の意味で、『碧巌録』の「心外無法」が用いられることもある。
心のほかに、別にとりたてて法はない。つまり、心によって世界の在り方が決まるということだ。憎らしい人に向き合うと、自然の美しさどころじゃなくなるし、好きな人と一緒なら、少々味つけが下手な料理でも美味しく感じる。世界とはそんなもので、客観的な状況などというものは存在しない。全てある特定の心との出逢い、要するに世界を決定づけるのは心だと言っているのである。 |
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おうむしょじゅうにしょうごしん
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| 『金剛般若経』のこの言葉が、六祖慧能の発心の契機と伝えられる。「応に住するところ無くして其の心を生ずべし」。住するとは、私の言い方だと「刹那を物語で無理矢理つなぐこと」。無心の今だけに、心は活き活きと発動する。 |
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しょうじじだい むじょうじんそく
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| 仏教徒にとって何より大事なのが、生死を明らかにすることである。生死とは何であるか。生まれて死ぬことに違いはない。しかし禅が考える生死は、一生に一度生まれ、そして死ぬことではない。今も生死は起き続けている。無常に明滅しつづける命そのものの在り方とも云えるだろう。だからそれは迅速に変化しつづけるのである。思いなど、追いつかないほどに、それは活発である。 |
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| なみたいらかにしてりゅうねむることおだやかなり |
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『如浄和尚語録』など。世の中が平和に治まっていることを祝う句。龍は春先まで龍澤に潜むとされる。龍が天に飛び立つと雲が多くなる。似た言葉に「海深龍臥穏」(うみふかくしてりゅうふすことおだやかなり)『建中靖国伝燈録』がある。
『老子』には人間の持ち得る最高の徳の内容として「生じて有せず、為して恃まず」とあるが、自ら産みだしたものや事柄を所有しない、また為したことを自慢しない、という発想を正月という節目は憶いだすときでもある。 |
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| さんとうこぼくのはな |
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| 「枯高」という言葉があるくらい、禅は枯れることを推奨する。三冬とは孟冬(旧暦十月)伸冬(十一月)季冬(十二月)の三ヶ月で、枯木は煩雑な人情を絶した厳しい修行を意味する。そこに再び咲く花こそが本物だというのである。『瑯?慧覚語録』には「三冬枯木秀で、九夏寒巌の雪」とある。 |
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| かんざしてしょうふうをきく |
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| ただ「松風」と云っただけでも静けさは感じられるだろう。「閑」は分別を離れた澄みきった心。閑かな心が幽(かす)かな音を楽しんでいるのである。 |
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| していこうよう |
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「止啼銭」という古い言葉がある。「止啼黄葉」は、本来は『般若心経』でもなければ『法華経』でもない。いわば「お悟り」そのものに、他人の悲しみや苦しみを緩和する力が宿っているということである。
自分に批判的である人々を説得するには、言葉ではなく、「品格」による。黙って人と対座する、つまり沈黙を磨くというのが修行と云えるのかもしれない。
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| ぶじこれきにん |
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臨済禅師は「無事是貴人 但だ造作すること莫れ、祇だこれ平常なり」と云い、また「求心歇む処即ち無事とも云った(ともに『臨済録』)。「無事」とは自分の内側に潜む無限の可能性こそ、すべてであると信じることである。造作もなく、平常であるのが最も貴ぶべき人間の在り方であると云える。
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| ばんぱみずをはなれず |
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土用を過ぎると海も波立つ。ご縁によってどのようにも変化するが、水は水。「大海の水の風に因りて波動するが如し。水相と風相と相捨離せず」という『大乗起信論』の言葉に拠る。どんな波になり、どんな色や形を現そうとも、それは水の本質を失わせる変化ではない。とことん仏性を信じようという立場が感じられる。信じるからこそ無限に変化もできる。
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| かうんきほうおおし |
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陶淵明の「四時詩」より。自然の清浄で美しい世界を表している。奇峯に喩えた雲の雄大な描写は、煩悩というより生命力と受けとめていい。盛んなことはいいことである。
※「四時詩」春水満四澤 夏雲多奇峯 秋月揚明暉 冬嶺秀弧松
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| くうもんかぜおのずからすずし |
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本来は「空」に徹すれば涼風のように爽快であること。また「空門」は門がない、塀や仕切りのない自由な境地も意味する。分別を交えない清らかな心で人に対すれば、世界は自ずと好適になるということだろう。
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| きっさこ |
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通常は「まぁ、お茶でもどうぞ」という簡単な言葉である。もっと詳しく→
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| らっかりゅうすいはなはだぼうぼう |
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「命」とは天からいただいたエネルギーであるが、我々の働きかけの影響も受け、変化をするものである。天命を受け容れて自由を楽しみ、縁に任せることで主体性も発露する。落花は「有意のままに無意」、流水は「無情のままの有情」というのが本来の在り方である。無心に相即する関係は片方の情をもう一方の情で自然に受けとめることとも云えるだろう。
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| わきこうどうにみつ |
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「和氣」とは単なる和なる雰囲気ではなく、陰陽の氣が和した状態である。出逢ってエネルギーを産みだす相手とは、好きとか嫌いとかの自己の価値観ではなく、矛盾という言葉が示すように相容れることがない相手が実は陽にとってに陰であり、陰にとっての陽だと考えるのである。和氣とは調えられた身心による、異物をも包み込むエネルギッシュな混淆なのである。
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| はっぷうふけどもどうぜず |
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八風とは利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽をさし、心がからっぽの状態であればこそ、縁に応じてさまざまな表情を見せつつも本心は揺れないこと。いかなる状態においても、安らかに楽しむ心のあり方を示している。
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| むくどく |
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| 「今」という瞬間に因と果が同居しているので、我々はその網の目の因果を見極めることなどできないのであるから、せいぜい「今」の瞬間を楽しむことである。因果律を忘れた境地を無功徳という。因果を推し量る「知」とは対極の、三昧の叡智である。 |
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| じゆそしよどくやく しよよくがいしんしや ねんぴかんのんりき げんじやくおほんにん |
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| 一生懸命やっている人のやる気をそぐような行いは、いつか自分に還ってくるという意味。人をののしったりしたこともいずれは自分に還ってくるというもの。(観音経) |
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| むぜんのぜん これしょうぜんとなづく |
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| 禅のスタイルが残っているうちは正禅とは云えない。しかし禅を学ぶにはスタイルから入るとすれば、それは遥かな道である。一旦学んだスタイルから自由になることこそ、真の自由と云えるだろう。そう、禅とは真の自由を目指す道なのである。 |
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| せいじゃく |
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| 『老子』では「無為」と表現されるが、あらゆる意思的で賢しらな行為も思いもなくなった境地が「清」や「寂」かもしれない。すべてを放下し、あらゆる所有物から解放された自由、つまり「自我」をも放下することで実現するのだろう。落葉を見ながら、思いを一つずつ捨ててみていただきたい。 |
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| もんをひらけばらくようおおし |
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| もともとは『全唐詩』のなかにある対句の後半部。「雨を聴いて寒更尽き、門を開けば落葉多し」となる。秋は稔り、つまり「悟り」を表現している。「世間」「自我」という我執を離れ、無常という変化を楽しみ、閑寂のなかで自然の推移に幽かな楽しみをもつことを説いている。 |
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| せんこうみずありうせんこうのつき ばんりくもなしばんりのてん |
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秋の高く澄んだ空が青黒く沈み、そこに大きな月が皎々と輝いている。じつに広大な景色が謳われ、大いなる心が示されている。
「月」は「仏性」の喩えであり、すべての人に与えられている悟りへの可能性である。この言葉は『嘉泰普燈録』巻十八・此菴守浄条、『長霊守卓語録』に見える。 |
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| たき じきげさんぜんじょう |
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| 真夏だけに似合う贅沢な禅語。瀧になって落ちていく水は、人の嫌がる低地にまるで嬉々として舞い降るかに見える。そのあり様が涼しいのは、悟りを求めるあらゆる難行が涼しげになされるからである。構成要素は常に迅速に入れ替わりながら、流れそのものが保たれるのは、命も同じである。「無常」の楽しみを表現している。 |
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| いきてはいたるみずのきわまるところ ざしてはみるくものおこるとき |
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| 唐の詩人王維の「終南別業」という五言律詩の一節。自らコントロールできない自然ではあるが、水の源を知り、その雲の湧きだすのを見る眼は自然と一体となっている。恐らくは、移り変わってやまない人情の世界も同じ流動である。果敢な行動力と泰然自若たる観察の妙を説いている。 |
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| たけみつにしてりゅうすいのすぐるをさまたげず、やまたこうしてあにはくうんのとぶをさえんや |
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| 竹はどんなに密生し、葉っぱがわんさかあっても流水はそのまま通すし、同様に、山がいくら高いといったって、白雲を妨げるということはない、というのである。本当の自然は歴史からも過去のどの瞬間からも自由だ。いつも流水として押し寄せてくるけれど、自然そのものは過去を引きずりはしない。常に自然の見せる新しさに虚心で対応できるのが「お悟り」と云えるだろう。 |
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| ゆうちょうしんにょをろうす |
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| 出典は『人天眼目』。郭公や不如帰の声は、なぜか森の深さを感じさせる。見渡せば、森羅万象が心理を説いている。幽鳥は幽かな鳥の声。「古松般若を談じ」の後に続くのが一般的だが、、『人天眼目』でも大正蔵本には「古松般若を揺らし、幽鳥真如を哢す」とある。「鳥啼いて山更に幽かなり」は、きっかけの声のほうに注目した言葉。
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| おうかびしょうのはる |
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禅語には珍しいが、当然これも日本の桜とは別の木。桜桃ともユスラウメとも云う。煩悩の雪が融けて、などと云わずとも、春には微笑みがこぼれる。
春とは人が不思議と「愛でたさ」を求める季節かもしれない。そして、その心が「愛でたさ」を呼ぶのである。 |
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| せんしん(『易経』など) |
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記憶や思いを放下すれば、心は自ずと新たになる。心機一転する正月に相応しい。正月とは、もともと修正する月のこと。『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』にもある。 |
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| こしょうはんにゃをだんじ、ゆうちょうしんにょをろうす (『人天眼目』) |
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| 老松の風や雲に彩られた佇まいに智慧を感じ、幽かな鳥の声にさえ命の本質としての真如を感じるという、澄みきった心境。 |
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| むいちもつちゅうむじんぞう はなありつきありろうだいあり (『蘇東坡』) |
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| あらゆる妄想の消えた心には外界の美しさ素晴らしさが素直に入ってくる。その様子を表現した言葉。心に一物もない状態になって初めて万物がありありと姿を見せるということ。これまで見えなかったのも、べつに相手が隠そうと思ってのことではない。心が曇っていただけのことである。 |
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| ちくえいかいをはらってちりどうぜず、つきたんていをうがってみずにあとなし (『蜜菴(みつたん)語録』) |
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| 因果を離れ、なにものにも住しない心はまさに「清風」と呼ぶに相応しい。悟った心の在り方を美しく表現した言葉。本当の利他行は、竹の葉影が階段を掃くように動きながら塵は一切動かず、月光が水を騒がせることなく底まで照らしだすように、目立たずに光を送り、人知れず涼気を運ぶものなのである。 |
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